東海道の昔の話(59)
  天保年間の災害  愛知厚顔    2004/1/3 投稿
 
 それはこの町の古老がこの何十年も記憶に無い猛烈な暴風雨だった、
  『ごおーッ、ごおーッ』
地軸を揺るがすように吹きつける風は、雨戸を引っ剥がし屋根の瓦を吹き飛ばす。その風圧は家の片隅で慄く人々の耳を圧迫する。そして
  『ザ、ザーッ』
 雨粒はまるで石つぶてのように、あわれな家々に降り注いでいだ。
  『めり、めりッ』
ああいまどこかで木の枝が折れたようだ。女や子供たちは恐怖で身がすくみ、男たちはこの嵐の中へ飛び出し、危険を承知で家の補強をする。
  「ずしん」
またどこかの建物が倒れたようだ。風はますます強く吹きつけ、雨はますます激しさを増した。もうこれまでか…、城下の多くの人々が運命をあきらめ始めたとき、風の方向が南から西に移っていった。やがてあれほど狂っていた雨も少し緩んだ。
 長い長い恐怖の夜明けが近くなるころ、さすがの嵐もウソのようにおさまっていった。

 そして天保八年(1837)八月十四日の朝を迎えた。
人々が恐る恐る外に出て我が家をみると、これはもう惨憺たる有様である。屋根瓦はめくれてすっ飛び、戸障子は破れてまるで鳥かごのようである。でも我が身は無事でよかった。
これだけでも幸いだと少し安心して亀山城を見上げると、
  『あれッ西丸がない!』
驚いた。いつも城下を見下ろしていた西丸の建物が消えてしまっている。この嵐で西丸はそっくり敷地の東南隅にある櫓池に落ち込んでいた。
 この暴風雨の被害ははなはだしく、藩内の家屋のほとんどが損害を受け、道路の破壊や橋梁の流失など、はかり知れないものがあった。
 藩の調査で明らかになった被害の一例は
  1:江ケ室の八幡神社境内の樹木六十本が倒壊折損
  2:南崎の権現社境内の樹木十九本が折損江が室の八幡神社
  3:南崎にある稲荷神社樹木九本
  4:御幸町の本久寺境内の樹木十九本被害
これらから被害の全体が推測できる。

 『城は後にして、まず城下の復旧を優先すべし』
藩主、石川総和は藩士に総動員令を発した。彼らは応急の復旧工事を夜を日についで急ぎおこなった。その成果が少しずつあらわれ、町にも落ち着きと賑わいが戻りはじめた。
 しかし収穫前の稲や農作物の被害は救いようがなく、
  『これじゃ米は全滅だわ』
こんな声が聞こえはじめると、じわじわと諸物価が高騰していった。
 亀山城下の米の値段は玄米一石が金三両二分二朱という、べらぼうな高い価格に跳ね上がってしまった。やがてこれが庶民生活を圧迫していった。

 亀山城下だけでも毎月十名内外の人が路傍で餓死し、また自分の邸宅内で餓死したり栄養不良で疾病にかかり、死亡する人がもっとも多いとき百名を数えた。
亀山藩庁の十日番で受け付けた記録では、普通病死を含む三十六人もの死亡が最多確認されている。藩主、石川総和は
  『倉庫の米を出して与えなさい』
非常用として備蓄してあった米四千石を困窮民に無償で提供した。また先代の石川総安が五年かけて倹約し貯めた金も、すべて提供して救済金にあてたのである。さらに米三千石を藩内の豪農巨商に貸し付け、廉価で販売をさせていった。また高禄の家臣たちも自発的に家禄を削って救済金にあてたり、自分たちの給付米の一部を提出したりした。
 六百石取りの家老で二割五分、五百石で二割四分七厘、五十石の家士で一割六分七厘など減じて返上している。
 これらの成果で翌年の四月には白米一升二百三十七文にまで戻した。もっとも同じ亀山藩領でも若松村では二百六十文と差があった。これは東海道五十三次の駅舎のうちでもっとも高額となったが、非常の場合なるため止むを得ないものである。

 翌天保九年は好天が続き一転して大豊作となった。
このためまず麦の価格が下落し、秋には米が九俵八分で金十両で買えるようになった。あとで判ったことだが、亀山藩が発行した米の切手(米穀引換券)を一部の豪農が偽造したり、困窮を理由に租税を滞納したことにし、私利私欲に走る藩吏もいて、これに連座して獄に投じられた者もいた。しかし
  『これらは逼迫の極みにあったときであり、
   情状酌量をお願いします』
と、亀山四ケ寺から藩主に嘆願書が提出されたのを受け、弘化二年と嘉永二年の二回にわたり、赦免令を発してその罪を減免している。
 町人の中には藩士の家に貯蔵されていた、荒布や麹と自分の贅沢品を交換して飢えを凌いだ。このとき麹五合と茶道具一座と交換している。ある村では米一合と交換するのを拒否した例もある。

 この年の初冬に京都から江戸へ下った旅人も亀山城の惨状に驚き
  「先年の風水害で被害にあったこの城は
   まだ復旧していない荒れようだ」
と日記に残した人もいる。
 米生産を中心にした財政政策では、自然の災害に対しいかに脆弱な経済基盤であったか思い知らされる。いまではとうてい想像もできないむかしの話である。
 
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