東海道の昔の話(6)
   野登寺の石灯篭       愛知厚顔 70代 元会社員 2003/7/13投稿
 
 野登山の山頂ちかくに真言宗鶏足山野登寺がある。
延喜七年(907)ときの醍醐天皇の夢枕のお告げにより発願され、僧、仙朝上人に命じられて創建された。伊勢廿二番の礼所である。   
開創以来、たび重なる兵火や自然の猛威により盛衰を繰り返してきた。
最近では平成十年秋の七号台風の猛烈な風は、樹齢数百年の参道の大杉を根こそぎ倒し、寺の本堂の屋根を破壊してしまった。このとき二基の石灯篭も破損したのである。このうち右の石灯篭にはつぎの銘がある。

   天保三壬辰年三月
   尾州海西郡大宝新田
   長尾治右衛門重教   
   
 この灯篭の寄進者、長尾治右衛門重教(しげのり)は、いまの愛知県海部郡飛島村の大宝の人。長尾家は三代目の重幸が尾張藩の許可を得て、伊勢湾の干拓にとり組んだ。当時の飛島村の大宝新田一帯は、遠浅の海と一面の葦原が生える州であり、その中に飛島という小島があるだけだった。
 元禄六年(1693)長尾重幸はまず干拓工事に着工した。汐を締め切る堤防を建設し、つぎに水路を掘り道路を設け、橋を架けるという大工事である。はじめは親族や豪農仲間四名で着工したのだが、のちにすべて重幸に開墾事業のすべてを譲渡した。それを長尾家は巨額な自己資金を苦労して調達し、ほとんど独力で成功させた。この大宝新田は延べ六十六ヘクタールに達する広大なものであり、いまも豊かな田園が名古屋の近郊沿岸地帯に広がる。

 尾張藩はこの大宝新田の開発の功績を称え、長尾家に苗字帯刀を許可し、十ケ郷取締役、浜方御年寄役など、大庄屋の上の総庄屋ともいうべき立場となり、いつくかの公職を与えられた。
 もともと長尾家は山城国伏見出身だったが、織田信長に仕えて尾張清洲に移り、のち尾張名古屋城下では豪商として成功し、尾張徳川藩主からも厚く信頼される身となっていた。
文久三年八月には尾張藩主から、長尾治右衛門代々格別の功労により、大宝新田の永代拝領を仰せつかった。

 野登寺の石灯篭を寄進した長尾治右衛門重教は、父の惟胤の子として天明二年(1782)生まれた。幼いときから頭脳明晰で知られ、名古屋では農学、医学、儒学の勉学に打ち込むいっぽう、和歌、俳句などにも親しんだ。成人したのち長尾家第七代当主を引き継ぐと、藩の重要な公職を担う傍ら、村の運営や一家の柱として多忙な日々を送っていた。
ただ一つ心配なことは、わが子重喬(しげたか)が小さいころから健康に恵まれず、いつも医者や薬を手離せないことだった。そこで重教は息子を連れて湯ノ山温泉へ湯治に通ったり、みずからも各地の寺社に祈願したりしていた。

 天保年間に入ると、重教は伊勢国鈴鹿郡の野登山にある野登寺に、十一才の息子の重喬を連れて、ときどき訪れるようになった。それは千古斧を知らぬ荘厳な雰囲気、千年杉に囲まれたこの寺の自然、登山して参詣することが、親子の強い体力造りに叶っていたことでもあった。
 ちょうどこのころ、菰野町田光の竹成五百羅漢(現、県文化財)を創建した、照空上人がこの山で修行し野登寺の住職についていた。
 上人は非常に政治力もある人物だったらしく、近在近郷の村人から多くの参詣者をあつめ、また多額のお布施を調達したり、亀山藩主からも支援をとりつけたりしている。
いまも仙ケ岳、野登山一帯には「法印の古場」「滝谷不動尊」など、照空上人が建てた石仏像が沢山残されている。
 重教はこの照空上人から法の教えを受けるとともに、身分や立場を越えて、互いに尊敬し合う間柄になっていたと思われる。

 そして息子の健康がまったく回復した年、天保三年(1832)の三月、新緑かおるこの野登寺へ重教は五十才になった節目に、感謝の心をこめて石灯篭を寄進したのである。
 その後も重教は各地の寺社に詣でていたが、天保十年には菰野湯ノ山の青滝不動尊の常夜燈も寄進している。
 彼の享年は天保十三年(1842)十二月十六日、行年六十才だった。
 彼に連れられて野登山に登山していた息子、重喬も父に似てすぐれた文化人であり、農業や開拓に関する多数の研究や著書を残している。
また号を星橘楼長雄と名乗り歌人としても有名である。
 現在、長尾家は大宝と改姓されているが、地元の飛島村ではいまも村の開発者として尊敬されている。
 
 残念ながら野登寺の石灯篭は無残な姿に変わってしまったが、このまま廃棄されることなく、できるなら修復保存されることを願っている。昔の姿 
 

参考文献   飛島村史   佐々木一「歴史こばなし」
 無残な今の石灯篭
 
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