東海道の昔の話(61)
  赤報隊エレジー      愛知厚顔    2004/1/14 投稿
 
 慶応四年(1868)三月三日、ときは戊辰戦争の真っ最中。東へ進軍中の官軍によって一人の男が処刑された。
彼の名は相楽総三。彼は当時官軍の先鋒隊「赤報隊」の一番隊長だったが、どうして彼が味方であるはずの官軍から殺されたのか…。それにはまことに摩訶不思議な時代背景があった。
 相楽総三は下総国新田村の豪農の四男として江戸で生まれた。
彼は文武に優れ二十歳で国学と兵学の私塾を開いた。
門人は数百人もいたという。二十三才で尊皇攘夷の志士としてデビュー、赤城山憤慨組や水戸天狗党の挙兵にも参加した。
慶応二年(1866)を迎えると今度は京都へ旅立った。
そこで勤皇の志士たちと交流し次第に彼の存在が知られるようになった。その京都で西郷隆盛から、ある日薩摩藩邸に招待された。
  『君が書いた華夷弁は読ませてもらいました。
   この内容は実に素晴らしい。長州藩主の毛利敬親公
   も感心されたそうですよ。』
西郷は彼の著書はよく読んでなかったのだが、志士の間で評判になっていたのである。
  『恐れ入ります。もはや幕府を倒すため一刻
   を争うときです』
  『倒幕を急ぐには将軍のお膝元、江戸での攪乱が
   必要と考えている。相楽君、おはんは行動が
   できる人と聞いている。そこで君に江戸での活動
   をお願いしたいのだが…』

 西郷の頼みにより、総三は同志とともにさっそく江戸にくだった。
 彼は江戸薩摩藩邸を根拠にした「浪士隊」を結成し、豪商宅への討ち入り、押し込み強盗、幕府役人の暗殺など、破壊活動を行って幕府攪乱を工作していった。
 治安の悪化を恐れた幕府は慶応二年十二月末、庄内藩に
  『薩摩藩邸に潜む悪者を捕らえよ』
と命じた。その結果は薩摩藩邸を焼き討ちしてしまったのである。
 このとき逃れた浪士の一部は品川までやってきたが、あまりの空腹に耐えかね、道すじにあった某藩の宴会の席に乱入し
  『我われも招待されている。料理を出せ!』
と難癖をつけ、出された料理をむさぼり食ったという。そして品川沖に停泊していた薩摩の軍艦に便乗して逃げ去った。
しかしこの話も彼らが後にニセ官軍として処刑されたので、どうしても無頼漢の集まりだとする必要があったと思われる。

 幕府側はも軍艦で追跡して大砲を発射したが、いずれも命中することはなく逃がしてしまった。
 薩摩艦は伊豆下田港に立ち寄り破損した艦を修理した。
そして航路を西にとった。そして戊辰(1868)一月二日には兵庫の港に入った。このとき同乗していた浪士はおよそ六十余人。
彼らはこの地に上陸して新しい同志を加えて百余人となった。
 この一月元日にはすでに鳥羽伏見で幕府軍と倒幕軍との間で合戦になっている。この戦いに勝利した倒幕軍は錦の御旗を立てて正式に官軍となった。
 そして官軍の本隊に先立って各地の情勢探索や、勤皇側への誘致活動を任務とする先鋒隊が必要となる。

 一月八日、近江の松尾山金剛輪寺において、公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを擁立した先鋒隊が誕生した。
このとき相楽総三は
  『この隊は心をもって国恩に報いる、
   という意味を込めて赤報隊としましょう』
と提案し、この理念が適切なことから隊の名前となった。
このとき隊の編成は江戸以来の相楽の同志を中心とする一番隊、旧新選組脱退系の二番隊水口藩士を中心とする三番隊から成っていた。総員は二百名もしくは三百名ともいわれる。
この結成には岩倉具視や西郷隆盛らのバックアップもあり、薩摩藩からも金百両と鉄砲百挺が支給されている。

  『さあ我われが官軍の先鋒隊だ。この旗が見よ!』
彼らは近江から美濃に入り信州方面に進出していくのだった。
相楽総三は一月十二日に太政官あてに建白書と嘆願書を提出している。それは官軍としての「官軍之御印」の下賜と、建白書として
  「幕府領の年貢の軽減をお願いします」
と要望したものである。これに対し朝廷は
  「これまで幕府領はすべて年貢を半減にする。
   また昨年の未納の分も同じく半減を認める」
という有名な年貢半減令が布告されたのであった。
 赤報隊はこの布告を旗印に掲げて進軍を続けていった。その結果は多くの農民民衆を味方にすることに成功する。そして赤報隊に共鳴して参加する若者も増え、赤報隊の勢いはますます大きくなっていった。

 ところがこのころ、京都では赤報隊について悪い噂が広がっていた。それは
  『近江で結成された赤報隊というのは強盗の集団らしい』
  『赤報隊は官軍本営の命令を無視し無法勝手なことをしている』
とかの内容である。実際はこれらの悪い噂は官軍側が意図的に作って流布させていたのだ。相楽総三の建白書で布告された年貢半減令、これは資金不足に悩む新政府軍にとってとうてい認められるものでなく、
  『赤報隊をニセの官軍にして葬ってしまおう』
と画策したものだった。新政府軍はこの噂の流布を理由に二月末に信州の各藩に
  『赤報隊はニセ官軍であるから逮捕すべし』
と命令を下した。そして相楽総三とその多くの同志が逮捕されてしまったのである。

 この赤報隊にはもうひとつ別働隊があった。
彼らは二十数名ほどで結成されており、近江から鈴鹿峠を越えて伊勢国に入った。
 そして一月二十八日ごろから桑名藩領安永村の青雲寺に駐屯していた。
 そのころ桑名藩は会津藩とともに幕府側の巨魁と見られており、官軍が桑名城を囲んで藩の動きを見守っていた。このとき亀山藩はいち早く官軍側に味方し積極的に官軍を先導していた。
 二月末の新政府軍からの命令は伊勢にも伝えられた。亀山藩はただちに兵を派遣して青雲寺を取り囲み、
  『その方たちを捕らえよとの命令が出ている。ただちに降伏せよ』
  『我われは絶対にニセ官軍ではない。朝廷から正式に認め
   られた官軍先鋒隊だ』
彼らの叫びもむなしく、やがて双方から
  「ダーン」「ダーン」
鉄砲が発射されて戦になった。この最初の銃弾が亀山藩士、志方小弥太の太腿にあたり、出血多量で犠牲になってしまった。
しかしまもなく赤報隊の中でも名のある川北真彦、赤城小平太、綿引徳隣ほか十数名を捕虜にできた。
 このとき近傍の諸村民も官軍に味方し、棍棒や竹槍などを携えて応援した。そして逃走する者を捕らえ、あるいは近くの町屋川に追い詰め石つぶてを投げこれを殺傷している。
亀山藩の塚本打右衛門は腕力に優れ、大男の赤城小平太を捕らえた。

 赤報隊の川北真彦は非常な文才の持ち主であり、亀山藩側の隊士の指揮をとっていた近藤百助に江戸で国文学を教えた師であった。
  『川北先生じゃないですか?いったい
   どうされたんですか、』
何年ぶりかに変わり果てた師の姿を見て、近藤は大変驚いた。
  『近藤君か…、君とまさかこんな姿で出会うとはね』
師弟がお互いの敵として出会うとは…実に皮肉な運命である。
いかに法は厳しかろうとも情において偲び難い。近藤は決心すると本営にむかって
  「なんとか川北の命を助けてほしい」
と嘆願した。しかし
  「何人であろうとも法は曲げられない」
との返事に近藤は人知れず涙を流したという。捕まった赤報隊士たちのうち三人は三滝川の堰堤で斬に処せられ、その首は晒された。
 四日市宿の貧民の某はその死体の衣服を奪おうとし、夜半に埋葬の場所を発掘したところ金五十両を見つけた。そして胴巻きに入れたのだが、
  『全額を頂くのは忍びない』
と思ったのか、四日市北町の建福寺にその中のいくらかを納め、遺体を同寺に葬り小さな石塔と建立したという。

 三月一日、相楽総三は信州下諏訪で開かれた官軍の軍議の席に呼び出され、そのまま逮捕されてしまった。そして三日、寒い雨の中でほかの赤報隊幹部とともに処刑されたのである。
享年三十歳。一切の弁明もしなかったという。
 総三の死後、彼の孫にあたる木村亀太郎は自分の生涯をかけ、祖父の無実を晴らそうと懸命に努力をした。その結果、
  「相楽総三と赤報隊はまったく無実の罪だった」
と冤罪を認められたのである。そして昭和三年(1928)昭和天皇の即位の御大典によって、総三に正五位が贈られた。
総三の死から実に六十年後のことであった。
 
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