東海道の昔の話(74)
 稲富流砲術ものがたり1  愛知厚顔   2004/6/6 投稿
 

わが国に初めて鉄砲が伝来したのは戦国時代、天文十二年(1540)に種子島に漂着したポルトガル船からでした。その後、近江国在の佐々木庄次郎という人が、フィリッピンに渡航し砲術と火薬の製造方法を学び、帰国後にこれを丹後田辺(京都府)の大江直時に伝えました。その直時から孫の直家の時代になると、彼は祖父伝来の秘法にさらに創意工夫を加え、ついに一つの流派として確立させたのです。
後にこれは稲富流とか一夢流とか呼ばれるようになりました。
そのいわれは、ある日田圃に仕掛けられた鳴子の響きに驚き、飛び立った小鳥を見事に打ち落としたことにより、ときの正親町天皇から
 『こののちは稲富を名乗れ』
と勅許を得たことによります。稲富直家は武将の細川藤孝忠興の父子に仕えて五千石を拝領し、丹後国山田郡弓木城に居住したのです。この城はもと細川家の家臣、一色義道の居城だったのですが、一色氏が謀反を起こしたので細川が取り潰し、あらためて稲富直家に与えたものです。

直家は秘伝の鉄砲火薬調合と射撃術で、全国に知られるようになりました。ときはまさに戦国の真っ最中です。各地の武将たちは競って稲富流から砲術の技術を習得しようとはかります。その一人が豊臣秀吉の武将、浅野幸長です。彼は稲富直家からその秘伝の砲術を習得すると、加藤清正とともに豊臣秀吉の命令により朝鮮出兵に参加します。この役で朝鮮蔚山城の激しい攻防戦を戦い抜き、この稲富流砲術のおかげで防戦できたのです。浅野幸長はよほど嬉しかったのか、慶長三年(1598)正月十日付で稲富直家に感謝状を贈っています。
『このたびの合戦では、蔚山表に明国人が
 数十万押し寄せ、十四日間も 昼となく夜と
 なく入れ変わり攻め寄せた。幸長は加藤清正
 と必死に防戦したが、犠牲者を多く出してし
 まい私自身も手傷を負った。しかし日ごろの
 砲術稽古のおかげで敵を数多く打ち従え、退却
 させることができた。これからも家中一同下々
 まで鉄砲をたしなむよう勤めます。
  まずは貴殿に御礼を申します。  幸長    』
また浅野幸長から細川忠興にも感謝の書簡を贈っています。

稲富直家は全国の武将に砲術を教える多忙な毎日でしたが、主君、細川忠興には忠実に使えていました。慶長五年(1600)忠興が東に下るとき、直家は同じ家臣の小笠原少斎や河北石見たちと、細川氏の大阪屋敷の留守を警護するよう命じらてました。
ところが七月十三日に至り、突如、石田三成が挙兵したのです。天下分け目の関ヶ原合戦の前哨戦です。細川忠興の夫人ガラシヤと忠隆の夫人、前田氏を奪って人質をしようと計ったのでした。三成の手勢が細川邸に迫ってきたとき、忠隆夫人は侍者に助けられて脱出に成功したのですが、ガラシヤ夫人は逃げる暇もありません。夫人は
  『もはやこれまで…』
と、我が短刀で我が胸を刺して自刃したのでした。

小笠原少斎はそれを見て夫人を介錯し、火薬を室内に撒いたのち火を放ちました。このとき稲富直家は西の表門を守っていたのですが、三成の手勢を誘い入れたとか、あるいは邸内への侵入を黙認したとか、あまり良くない噂が伝えられました。
細川忠興は関ヶ原合戦後にこれを知り、
  『草の根を探しても直家を捕らえよ』
大いに怒り狂って稲富直家を捕らえ、彼を処断しようとしたのですが、直家は逃走して徳川方の井伊直政や徳川忠吉らに助けを求めました。しかし彼らも旧主君の細川忠興の意向を無視できず、大っぴらに稲富直家を擁護できなかったのでした。
                (続く)

 
戻る