東海道の昔の話(76)
 稲富流砲術ものがたり3  愛知厚顔   2004/6/6 投稿
 
石川家も昌勝の時代になると山城国の淀に移封となり、さらに延宝六年(1678)になると、稲富茂清の次男尚信も城仕えを辞して京都に去りました。しかしその子孫は三男の尚寿の子孫とこの地に残りました。稲富直勝の以後は
亀山の石川家累代の城主に仕え、またその移封にともなって山城国の淀、あるいは備中国の松山などに移りました。

延享元年(1744)には親戚筋にあたる稲富傳右衛門、名川六郎右衛門らが主君の石川総慶に従い、備中松山から伊勢亀山にやって来ました。
その間には稲富尚房の次男、稲富直之は石川家を辞して幕閣の柳沢保明に仕えました。この尚房の次男、稲富尚重は柳沢吉里に仕えました。しかし彼は子が無かったので同族の名川良直の孫、幸馬を養育して跡継ぎにしたようで
す。
寛延三年(1750)稲富幸馬が亡くなると、その子孫は亀山城下にやってきました。そして同族の亀山藩の重役の稲富傳右衛門、家老の名川六郎右衛門の斡旋で関宿と坂下宿の間にある市ノ瀬村に入り、そこで農業をして定着した
のでした。
稲富家は直俊いらい九代にわたり亀山藩で禄高三百石を賜っていました。
明治の初めまでは累代襲名して傳右衛門と称していました。しかし太平が続く世に砲術も実戦型から形や作法を重んじるものに変化していました。そんなとき黒船来航のショックです。各藩も重い腰を上げ兵制改革を進めます。
亀山藩はスイス製の小銃を採用した鉄砲隊を組織しました。
幕末の戊辰の年(1868)一月、鳥羽伏見の戦いでは、最新式の元込め弾丸の鉄砲で武装した官軍側が圧勝しました。この合戦の結果を知った亀山藩の稲富傳右衛門は
 『もはや稲富流砲術の時代ではない』
と落胆し、祖先伝来の秘伝書を堆く積んで火を放ったのでした。
このなかには火薬、弾丸、姿勢、狙い点など、いまみて
も真髄を突いた完璧の砲術伝書「一流一辺の書」「極意」
「一大極意書物」なども含まれていました。
こうして砲術の名門、亀山の稲富流は歴史の舞台から去っていきました。

いま全国には稲富流を伝える砲術隊があります。
とくに山形県杉米沢市にあるのは、上杉米沢藩から連綿と伝られたえ三十六名からなる大規模な鉄砲隊です。彼らは各地の祭礼や砲術大会に出演しています。ほかにも大垣城鉄砲隊、会津藩鉄砲隊、彦根藩鉄砲隊など稲富流の流れが残っています。稲富流が使用する銃は火縄銃でも最大級のものです。
その弾丸も通常のものは二匁から四匁ですが、稲富では三十匁玉を使用します。先日も「何でも鑑定団」というテレビ番組で稲富流の子孫という澤田平氏が出演し、くわしくこの流派を解説していました。
いま亀山の町には市役所近くに名川六郎右衛門宅跡の石標があります。この人も稲富の一族です。また稲富直系のご子孫も市内の江ケ室に住んでおられ、稲富直俊から伝わる裕定の名刀は亀山市文化財の指定になっています。
加藤書店前にある名川六郎右衛門宅跡
   
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参考文献   稲富傳右衛門由緒記、
    名川六郎右衛門系図及由緒記、大阪御陣覚書  
 
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