東海道の昔の話(78)
  尾張藩の横車 2          愛知厚顔   2004/6/9 投稿
  このころますます上方の世情は騒然となる。七月に入ると京都の幕府出先機関へ向け、江戸城から現金の輸送をたびたび行うようになった。これはカマスに一分金二歩金を詰め込み、振り分け荷駄として馬で運搬していた。輸送は秘密が外部に知られないよう、警護役人の数もわざと少なくして目立たぬよう
にしたのが裏目になる。この情報がどことなく漏れてしまった。
それを知った一人の悪党がいた。彼は亀山の野尻村で輸送隊を襲った。二歩金を一駄、金貨約50kgを奪ったのである。彼はこれを鈴鹿川の碩に埋めて逃げ去った。

ところが夜中に雨が降ってきて表面の土砂が流れ去り、その金の一部が露出したのだ。亀山藩はさっそく役人を派遣し、これを回収し幕府に報告した。
十数日の後、悪人が
 「そろそろほとぼりも醒めたろうから
  掘り出してやろう」
と現場にやってきたが、埋めたはずの金が見当たらない。ウロウロしている所を張り込んでいた役人に発見され、捕縛されてしまった。
藩では牢に入れて取調べ尋問したが何も答えない。しかしこの悪人の犯行であることは、目撃者や荷駄馬引きや警護役人の証言からはっきりしている。藩は難波甚五右衛門を責任者に任命し、江戸表まで護送していった。

あとで尾張清洲の高間甚右衛門という商人の話で判ったことだが、この悪人は尾張清洲の大里正某の次男であり、彼のバックには大陰謀団の組織があって、軍資金を獲得するため彼を唆して犯行に及ばせたということだった。
亀山から江戸へ護送される途中、尾張熱田でその男の親戚、雇人たちが路傍に出てきて彼を目送したそうだ。護送責任者の難波甚五右衛門はそれをみて
  『二人だけなら囚人と話をしてもよい』
と許可を与えたところ、親戚の人々は
  『このような温情あるお許しを頂けるとは…』
と涙を浮かべて感謝したという。彼らは梅干を数個、籐丸駕籠
の隙間から囚人に差し入れて与えた。そのとき囚人は大声で
  『亀山藩で在監中は厚遇された。感謝せよ!』
と叫んだそうである。
彼は江戸で再尋問されたが、ただ瞑目して何も答えず、そのまま斬に処されていった。人々はこれを聞いて
 『彼は単なる盗賊ではないぞ。おそらく尾張藩へ
  の反逆者か、あるいは家老、渡辺新佐衛門一派
  の者だろう』
と噂したという。このとき渡辺という名が出てきたのには理由がある。

そのころ尾張藩内は勤皇側に心を寄せる一派と、幕府側に組する一派があり、互いに激烈な暗闘を繰り広げていた。渡辺や榊原勘解由は藩内の佐幕派を代表する派閥の主要なメンバーであった。そして主君の徳川慶勝は表立っての行動は差し控えていたが、れっきとした勤皇思想の持ち主である。そんな事情はこの時期、どの藩の内情も同じであった。
尾張藩から何らの回答がないまま空しく時が経ってしまう。
  『やはりあれは尾張様が本気で言ってきた
   のではなかったようだ』
交渉に当たった亀山の重役たちも、何もせずこのまま放置しておくのが得策と考えた。

それから数ヶ月のち慶応三年(1867)十二月九日、王政復古の大号令が発せられた。まさか徳川幕府が政権を朝廷に返上するとは…、各藩に驚天動地の動揺を与えた。
年が明けて戊辰の年(1868)を迎えた正月三日、鳥羽伏見で戦端が開かれた。戊辰戦争の幕開けである。この戦いの緒戦で旧幕府軍が大敗北を喫し、幕府の威厳回復の夢は消えうせた。前将軍徳川慶喜は大阪から海路江戸へ逃げ帰る。
正月七日には慶喜征討令が発せられ、その征討軍の東海道先鋒は尾張藩の幼い徳川義宣が命じられた。彼の父、引退した徳川慶勝も同行して実質的に政務を司っていた。
 
 その慶勝に国元から密使が到着した。
  『名古屋の国元では渡辺新左衛門たち佐幕派の一味
   が幼君義宣を奪って江戸に下り、旧幕府軍と合流
   して再び京都に攻め入ろうとしている』
この情報に驚いた慶勝、すぐ重臣を呼んで協議した。
そして尾張藩内の事情とその結論を岩倉具視に報告し、岩倉の了承を得た。結論の内容とは容赦のない処断であった。

正月十三日、尾張徳川慶勝は京都を発し二十二日に名古屋城に入る。すぐ二の丸御殿で会議を開き、午後四時に三人の重臣家老を呼びだした。渡辺新左衛門、石川内蔵允、そしてあの榊原勘解由である。彼らに告げられたのは
  『その方たち、朝命によって死を賜うものなり』
とだけであった。その死の理由を言うわけでもなく、またなんら抗弁の機会も与えられることもなく、まさに
  「問答無用」
とばかりに斬首されていったのである。そして続く数日のうちに佐幕派と見られた十四人を斬首している。さらに減録、永蟄居、閉門などの処分は述べ数十人にも達したのであった。
これが俗にいう〔尾張藩青松葉事件〕である。青松葉とは首謀者とされた渡辺家の家紋からといわれる。

この事件の顛末は尾張藩内でも緘口令が敷かれ、絶対に口にすることが許されなかった。そのため斬首された渡辺、石川、榊原の三家老は藩主に背いた逆臣とみられていた。
亀山藩にも日ならずこの事件のあらましが届いたが、
 『あの腹黒い榊原勘解由たちなら、主君を排斥する
  陰謀ぐらいやりかねないだろう。死罪は当然だ』
と噂し合ったのである。

ところが後年になり、事件の真相がぼつぼつ明らかになった。それによると、岩倉具視すなわち朝廷の意向は
  「尾張藩の佐幕派を一掃して、藩内を勤皇でかため、
   中仙道、東海道沿いの各藩を勤皇に引き入れる。
   もし旧徳川幕府軍が西に攻めてくるときは、東海道
   では名古屋で阻止する必要がある」
ということだった。徳川慶勝は承知せざるを得なかった。子の義宣を京都に残して自身は急ぎ名古屋に戻り、重臣たちと協議したのだが、斬首するほどの重罪に値いするほどでもないのに、この処分に誰も反対しない。慶勝にとっては全員が股肱の臣である。まさに血を吐く思いでの処分だった。
そのためあえて朝廷の命令で処分するとしたのである。

 のちに徳川慶勝は自筆の日記の中で
  『事件の起因は朝廷にあるが、私は藩内の紛争
   として極秘に収拾した。その年の日誌を全部消滅
   させるなど、人知れず苦労した』
と書いている。

榊原勘解由がどうして亀山藩に出向き、広瀬野を自領と主張したのか…。いまとなってはわからない。

参考文献、  〔名古屋城青松葉騒動〕、〔尾張徳川家維新秘史〕
       〔鈴鹿郡野史〕
 
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