東海道の昔の話(81)
 大黒屋光太夫との対話 2  愛知厚顔   2004/6/15 投稿
 
【当時の北辺の様子】
 
厚顔  『蝦夷地は夏は短く一年の大半は寒い土地です。
     米はまったくと言ってよいほど収穫できません。
     この地の産物は海産物や鳥獣の毛皮、砂金、鷹狩り
     用の鷹捕獲などでしたね』
光太夫 『そうです。ことに蝦夷地の近海は世界的有数な漁場
     です。これらに松前藩は課税をして藩の財政は裕福
     だったそうです。江戸中期にはヒノキ、トドマツ、
     などの木材資源やニシン、サケ、マスなどが豊富に
     獲れてました。』
厚顔  『アイヌの人が和人と呼んでいた本州人の中に、かな
     り悪どい人が多かったですね』
光太夫 『ハイ。アイヌの人をこき使ったり、交易の交渉過程
     でいろいろなトラブルや争い引き起してます。
     もっともひどいのは、住民に強制労働させて酷使し
     たり、婦女子や弱者を徹底して虐め抜いたことで
     す。』
厚顔  『その昔、寛文九年(1669)には酋長シャクシヤインに
     率いられたアイヌの人が、松前藩に反乱を起しまし
     た。藩は圧倒的な兵力で残虐な報復を加え鎮圧しま
     したが、和人のひどい仕打ちに怒ったアイヌ人の
     反乱は、繰り返し起こりましたね。』


光太夫 『ロシアの商人もアイヌ人に悪どいことをしてます
     が、松前藩のは組織的な弾圧でしたよ。
     私が帰国する三年前のにも北方四島のひとつ国後島、
     そして対岸の目梨でアイヌの反乱蜂起がありました。
     その背後にはロシア側の扇動があったのは確実でし
     ょうね。』
厚顔  『松前藩は相次ぐ土着民の反乱に右往左往し、あちこ
     ちに藩兵を送って徹底し残虐な鎮圧を行った。
     松前藩や幕府はこれらの情報が世間に漏れるの恐れ、
     情報管理を徹底していたんですが、いつしかいろい
     ろな風説が巷間に流布しはじめました。
      天明三年(1782)に仙台藩医の工藤平助が
     「赤蝦夷風説考」を著し幕府に献上しました。それ
     には強大なロシアが日本に迫っていることを指摘し
     ています。』
光太夫 『ロシア人は赤い狸々緋の衣服をまとっていたので、
     日本人は「赤蝦夷」と呼んでいました。これは中国
     の伝説上の怪物です。当時の日本の人々がロシアの
     南下を恐れ、ロシア人に名付けたものですね。』
厚顔  『 工藤平助は自著のなかで
     「ロシアは日本を侵略する気は少ない。いま密か
      に行われている密貿易をやめて、蝦夷地でロシア
      と正式な貿易を行い、その利益で蝦夷の金鉱や
      銀鉱を開発するのが大事である」
     と述べてます。』


光太夫 『そこへ蝦夷地での土着民との騒動も幕府に伝えられ
     ました。老中の田沼意次は、鉱山開発の可能性、
     密貿易の実態などを調査する必要を感じ、工藤平助
     の建言を受け入れたのでしょう。』
厚顔  『幕府は天明五年(1785)に蝦夷地を調査しました。
     そしてロシアの進出を確認したんです。
     また密貿易はあまり心配することでなく、鉱山の
     開発は時期尚早であるのが判ったといいます。』
光太夫 『この調査隊に最上徳内が参加していたとをロシアで
     知りました。彼はアイヌ語、ロシア語が堪能であり、
     数回にわたって蝦夷地の探検をしましたね。
     エトロフ島に「この島は日本の領土だ」という標柱
     を建設しました。この史実は島が日本古来の領土で
     あることを証明しています。』
厚顔  『やがて田沼意次が老中を罷免され、そのあとの老中、
     松平定信は、天明の飢鐘や災害などを乗り切り、
     質素倹約をモットーとする改革政治を行ないました。
     寛政の改革です。アダム・ラックスマンが貴方を
     伴って来航したころの日本はこんな状況でした
     よ。』

 【ラックスマン使節団】

厚顔  『 寛政四年(1791)九月三日、アダム・ラックスマン
     の使節団はエカテリーナ号で貴方と、磯吉さん、
     小市さんを乗せ根室に着きました。ラックスマンは
     貴方の恩人であり学者のキリル・ラックスマンの
     息子さんですね。そして松前藩根室番屋に出向き、
     ロシアから来航した旨を伝えられた。』
光太夫 『息子のラックスマンと私たち一行到着は根室から
     松前藩邸経由ですぐ幕府に伝えらた。』
厚顔  『知らせを受けた松平定信ら幕府中枢は驚愕しました。
     国内問題だけでも手一杯で対応に苦慮しているの
     に…。今度は強国ロシアの使節が来たのですから…。
     松平定信はすぐに
     「ロシアが強引に通商を求めてきたのに違いない」
     と確信したそうですよ。』
光太夫 『あのお方はすぐ幕府の代表をを派遣してロシア
     使節団と交渉させました。幕府側は
     「わが国の漂流民を救助して頂き、送り届けて
      もらったことはは感謝する。しかし貿易を行う
      ことは出来ない」とほかのことは一切応じなかっ
     たのです』
厚顔  『またアダム・ラックスマンが持ってきたシベリア
     総督の公文害も
      「長崎以外では受け取れない」と拒否されて
     しまいました。やむなくラックスマンは長崎の入港
     許可証を受け取っただけで帰国しました。』
光太夫 『この入港許可証の写しは鈴鹿市若松小学校にある
     私の大黒屋資料室にあります。』
 

厚顔  『さて貴方がたの一行は、松前藩の役人に調べられ、
     江戸に送られてからは江戸町奉行や目付など何人か
     に調べられたと聞いてます。その後はどうなりまし
     た?』
光太夫 『寛政五年(1793)九月十八日に、第十一代将軍、家斉
     様の上覧を受けました。その模様は幕府の奥医師、
     桂川甫周様によって、翌寛政六年(1794)年六月に
    「漂民御覧之記」としてまとめられました。』
厚顔  『一般人が将軍様直々の上覧を賜ることなど異例中の
     異例です。貴方がたの人格や知識が並々でないこと  
     がこれまでの調査で判明しており、幕府側も貴方が
     から直接に話を聞いてみたいと、特別に配慮された
     と推察されます。これは正しかったと思いますよ。
     あの老中松平定信も、光太夫らが江戸に着く前に
     老中を辞職していましたが、この上覧には同席し、
     貴方に尋問をしてますが、彼もよほど外国の話を聞
     きたかったんでしょうね。』
厚顔  『吹上での上覧は将軍が正面に簾を掛けて透見し、
     右側に松平定信、加納遠江守、平岡信濃守、高井
     主膳正など。その前列は亀井駿河守、小野河内守、
     高木寿院、桂川甫周ら幕府中枢の要人がずらっと
     座っていましたね。』
光太夫 『私の服装は赤色ボタンをつけた桃色の上着、桃色の
     ズボン、黒皮の深靴、左胸には金のメンダリヤ勲章
     を付けました。この勲章はエカテリーナ二世から
     頂いたものです。』
厚顔  『磯吉は銀色ボタンをつけた紺色の上着、緋色の
     チョッキ、黒色に黄色の筋が入ったズボン、靴は上
     が柿色と下半分が黒の深靴、そして胸にメンダリヤ
     勲章を下げてましたね。』
光太夫 『この上覧では二十六ケ条の下問がありました。
     直径十二間半の大時計、重量五百ポンドの鉄製の
     磁石、長さ十九間口径三間の大砲、猪ぐらいの大き
     さのネズミなど、またあちらでラクダを見たのか?
     とか、ロシアの冬の寒さはどんなものか?とか、
     雁は年中いるのか?、水車や風車はあるのか?など
     聞かれ正直に答えました。ほかにも見聞をつぶさに
     お答えしたのを覚えております。』
厚顔  『答えに一番困ったのは?』
光太夫 『ロシアでそれほどの恩義を蒙りながら、どうして
     帰国する気になったのか?とか、教会で十字を切る
     ところを見たか?など、日本の国禁を犯していない
     か?遠まわしの質問には慎重に答えました。』
厚顔  『貴方の堂々とした態度に松平定信は
     「英雄かならず生き残りて、かくあるなりけり」
     と、賞賛の言葉を残していますよ。』          
光太夫 『ハイ。過分なお褒め恐縮です。
     その後、桂川甫周様から私らに対し聞き収りを一年
     ほどかけて行われ、寛政六年(1794)八月に
     「北槎聞略」としてまとめ、幕府に献上されました。
     〔槎〕」は「いかだ」のことで、
      北方いかだ漂流傳聞記とでもいうのでしょうか…』

                戻る              〔続く〕


 
戻る