東海道の昔の話(86)
 中江藤樹の妻 2  愛知厚顔   2004/6/18 投稿
 
 こうして久子は中江藤樹の妻となった。
藤樹が直感で見抜いたとおり、彼女は素晴らしい女性だった。
誰よりも朝早く起きて広い屋敷と弟子たちの塾間を清掃する。
大勢の使用人、内弟子の面倒も見なくてはならない。そして全国から藤樹の名声を慕ってひっきりなしに人が訪れる。
 家計のやりくりはもちろん、親戚友人、弟子たち。大勢の人々の面倒一切が久子の肩にのしかかった。しかし藤樹が期待したとおり彼女は見事に責務を果たしていった。
  「顔の美しさは年をとるほど衰えていくが。だが心の美しさ
    は年を経るほど増していく。」
  「久子でよかった」
いつしか二人の子供にも恵まれ、藤樹は心からそう思っていた。
しかし母のお市は普通の人である。ことあるごとに
  『うちの嫁は器量が悪くて…』
と近所の人にこぼしていた。これは母が他界するまで直らなかったという。

 藤樹の思索はこの結婚を期に少し変化を見せる。
 それまでは宇宙万物の主宰者を考え、道教の神に敬等していたのが、全孝説に移っていく。これは孝の徳についてただ親に孝養を尽くすという、世間一般の考え方にとらわれず、孝徳は宇宙万物人倫の全体にあまねく行き渡る道徳の原理であるという。
 人倫日用の道徳はこの高徳にもとずき、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友それぞれの立場から実践されるべきものである。
そしてなぜ孝が万徳の基本なのか…といえば、わが身は親より受け親の身は天地より受け、天地は宇宙の本体から受けたものである。
だから天地万物は同根一体であり、父子の間の孝徳から、人倫の間に拡充し、宇宙万物に及ぶものである。このように広大無辺な孝徳は、元来決まった名称はなかったが、昔の聖人が世の中の人々に判りやすいよう教えるため、親と子が互いに慈しむことを孝と名ずけたのである。そして孝徳の実質は愛と敬であり、愛は心を尽くして親しむこと、敬は人を敬い軽んじないことである…と。
 
 藤樹はまた結婚感についても語っている。
 それは、夫は「和」と「義」をもって妻を導くのが大事。和とは親しみ和合する徳であり、義とは道理に従い判断し、非道を捨てる徳である。たいていの夫婦の間は、愛欲の私心に溺れ、義理の判断がないため、あるいは親子、兄弟の間の骨肉の親しみも少なく、お互いに恨み憎しみを持つこともある。あるいは家庭の秩序を破壊し、ひいては国を失う者も古来その数は多い。
 ときには夫婦の交わりも正しい道から外れ、作法の見苦しい者もある。これもみな人心の迷いである。そもそも妻は亡き母親の跡継ぎである。家の祭祀の助けでもあり、子孫を絶えることなく引き継いでゆくもの。人倫の生まれる始めであるから、親しみ和合すべきとこはもちろんである。
 この義理の判断がなければ愛欲の私心に溺れ、家道は乱れ、常識を失うから和と義の二つを合わせ、夫が妻を導く道が大事なのである。

 また妻は「順」と「正」の二徳をもって夫に仕える道が正しい。
順とは心持ちを柔和にし、物の言い方や顔つき起居の立ち振る舞いまでもやわらかに従う徳である。正とは義理作法を正しく守る徳である。妻は夫と天とたのみ、夫の家を我が家とし、夫婦は一体の理であるゆえ、自分を生んだ父母と父母とせずに、夫の父母を自分の父母とすることは先聖の言われたこと。永久不変の天則である。
まず舅と姑に孝養を尽くすのが順と正の第一とする。
 まとめて言えば、妻は女の仕事をよく勤め、作法正しく、夫の指図に従い、家の中をととのえ、子孫を育て、親族仲良くし、使用人に恩を施すことが婦徳である。と
                 
 ある日、藤樹は久子にむかい
  『私がどんな学問を教えているのか、知っているか?』
と聞いたところ、彼女は
  『難しくて学問の内容はよくわかりませんが、貴方さまの
   お話は台所まで聞こえます、私は自分なりに、こういう
   意味だろうと判断しています。』
と答えた。藤樹はそこで
  『この世の中で人間が一番に願い求めるものは何だと
   思う?』
と聞いたところ、久子はしばらく首を傾けていたが
  『それは心の安楽を願うのが最高だと思います。』
と答えた。ふーん判っているようだ。藤樹はさらに
  『ではこの世の中で人間が第一に嫌い捨てねば
   ならんものは何だと思う?』
  『それは心の苦痛でしょう。』
即座に答える。
  『では苦しみを去り楽しみを求める方法は、
   どんなものだと思う?』
  『それは学問でしょう。』
藤樹が日ごろ弟子たちに教えている学問、それを久子は平易な自分の言葉で解釈していたのである。   
  
 学問をする、という道理は元来、われわれ人間の心の本体は安楽なものである。その証拠に、乳幼児から五、六歳までの心を見てごらん。世俗の人も幼児の苦悩の無い様子を見て、仏であるなどと言う。このように心の本体は安楽で苦痛のないものである。
 苦痛はただそれぞれの人の惑いであり、自分で作る病気である。眼の本体は開閉自由で物を見るにも、はっきりと気持ちのよいものである。もし塵やゴミが眼の中に入れば、開閉は不自由となり、物をはっきり見ることができない。苦痛は耐えられない。一時は耐えられない苦痛でも、塵やゴミを取り去れば、本来にかえって眼の開閉は自由であり、はっきり見えて気持ちがよい。
 そのように心の本体は元来、安楽であるけれども、惑いというゴミや塵のため、いろいろの苦痛があり耐え難い。
学問はこの惑いという塵やゴミを洗い去って本体の安楽に変える方法である。学問によく励み工夫して受用していけば、本来の心の安楽に近ずいていくのである。

 このときの久子との問答は、のちに「翁問答」の中に取り入れられ上梓された。これは藤樹の思想を集大成した最高のものと言われている。

 正保三年(1646)中江久子は逝去した。二十六歳の若さであった。
 藤樹は三十九歳である。やはり
  「長い間の中江家での無理が重なったのだろう」
と人々は噂をしたという。藤樹は翌年に後妻を迎えた。
 しかし近江聖人と多くの人々から慕われた中江藤樹。
彼は慶安元年(1648)八月十五日の朝、四十一歳で亡くなった。
 先妻の久子を失ってから僅か二年の後であった。

 わが国に革命的思想を始めて説いた中江藤樹。ところが江戸時代の中期、老中松平定信が寛政の改革をうちだした。これで寛政二年(1790)以後は儒学のうち、朱子学を正学とし他は異学として排斥の運命になる。幕府の藩校、昌平校でも朱子学以外の講義がなくなる。
これを見習って各藩の藩校から陽明学の講義も消えたのである。
以来、いまに至るまで学問として学べる機会は殆どない。
 明治になってからあの内村鑑三は西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳らとともに、中江藤樹は代表的な日本人であるとし、いまの宗教指導者など足元にも及ばない思想家だと言わしめている。

                     〔終り〕
            
                          参考文献  童門冬二「小説、中江藤樹」
                                    中江藤樹「翁問答」
 
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