東海道の昔の話(94)
  かわひたり餅  2      愛知厚顔  2004/7/4 投稿
 


慶長十九年十一月二十七日、
石川主殿頭忠総の指揮する鉄砲隊が氷の水の中を進みながら、一せいに葦島に弾丸を撃ち込んだ。しかし敵の抵抗は衰えずこちらも進むことができない。互いに鉄砲で射撃の応酬をしているうち、とうとう日が暮れてしまった。忠総は
 『いまこそ汚名を晴らすときぞ、一歩も引くな!』
と部下を激励して回った。皆は冷たい水の中に立ったまま夜を過ごす。真冬の真っ只中である。寒気は足元から這い上がり、鎧や兜はもとより鉄砲、刀剣も凍え、干飯などの食料も尽きてしまう。
そんな状況が丸一日一夜続く。そのうえ冷たい氷雨まで加わってくる。人々は寒さと飢えに苦しみながら必死に戦っていた。
そんな戦況を見て石川忠総は数人の兵に
  『餅を運んで皆に食べさせよ。』
と命じ戦場に運ばせた。兵たちはこの餅を水に浸してやわらかくし夢中で食べたのである。空腹が満たされてくると勇気が涌いてくる。

十一月二十八日、
 寒くて長い夜が明けた。思いがけなく餅を頂いて元気をとり戻した兵士たち、夜明けとともに再び敵に立ち向かった。
 この砂州の先端を守るのは豊臣側の薄田兼相が指揮する兵だが、その守りは甚だ堅固であった。夜となく昼となく鉄砲を撃って戦意は衰えない。石川軍は死傷者がすこぶる多く、激しい戦闘の連続だった。
  “ダーン”
このとき一発の弾丸が飛来し、石川主殿頭忠総の座截を守る兵卒に当たり死亡した。すぐに石塚與右衛門が代役となり合戦を続行する。
 『殿が危ない!』
家臣たちが自分の身で主君の身体をいっせいに隠した。
 『大丈夫だ。俺に構わず敵を攻撃せよ!』
幸い忠総は怪我も無くてすんだ。これを見て半田忠太夫、鳥山作兵衛、徳森伝次など勇敢な部下たちは、ますます勇気を奮い起こし
 『それッ!』
攻撃をかける。この戦闘で稲富伝右衛門直俊は敵の将を一発で倒す手柄を立てた。かくして一進一退の戦況が続いた一日であった。
 
十一月二十九日の朝がきた。
 このときふと見ると焼け残りの舟が二隻、上流から流れてくるではないか…、一説には鳥羽水軍から忠総が借用したとも言われる。これみて
  『これこそ天の助けだ!』
隊長の平出市之丞、中黒弥兵衛ら七人がこの舟に乗り、槍を櫂の代用にして進む。総大将の石川忠総らもほかの一隻に乗り移って進み、敵の潜む砂州を急襲した。このとき敵将は前夜から愛妾のところに泊って不在だったとか…、総指揮者不在では戦意も失う。石川軍はときの声を合わせて
  『それ行けッ!』
まもなく敵は敗走しはじめた。
やがて潮も引きはじめた。これをみて徳川方の軍勢は
 「ウオーッ!」
一斉に水を渉って攻めこむ。また鳥羽水軍の九鬼守隆が舟を数十隻を引き連れて到着し、北の逃走路を塞いだ。さらに蜂須賀氏の援軍も到着し南の方面を塞いだ。
こうしてあれほど徳川軍を悩ませた博労ケ淵の戦いは、石川主殿頭忠総の指揮する兵の働きにより、勝利をもたらしたのだった。

十二月一日、徳川家康は博労ケ淵の激戦の跡を視察した。
そして石川忠総に
  『主殿頭どのの働きはお見事。この武勇は
   末代までも語り継がれるだろう』
と賞賛したのだった。かくして実父の不行跡から謹慎蟄居という悲運に見舞われた忠総も、見事に汚名を挽回した。
この後、蟄居を解かれた石川忠総は近江膳所藩、亀山藩と移封していく。多くの大名が不行跡などで断絶の運命をたどるなか、石川家は明治維新まで存続されるのである。
石川家の家臣たちは、この博労ケ淵の激戦の前後の苦労を忘れることなく、毎年十二月一日には〔かわひたりもち〕を食べ、報恩の思いを新たにしたという。
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                  参考文献  「大阪御陣覚書」「大阪冬陣記」
                           「鈴鹿郡野史備考編」

かって上品な茶菓子と人気のあった亀山銘菓「川ひたり餅」
10年以上販売されていなかったが2004年の10月に市民活動グループの手により復活し、亀山大市(毎年1月の最終土日)に限定販売されている。

 
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