東海道の昔の話(95)
   和算の先生 1   愛知厚顔  2004/7/8 投稿
 


亀山藩が開設した藩校、明倫堂は藩士に限らず志あるものは町民や農民の子弟でも受け入れている。これは時代を先取りした開かれた学校であった。のちに明倫館と改名されるが、そこでもとくに人気が高かったのは、数学すなわち和算を教える九思堂である。
この時代の数学は読み書きソロバンと呼ばれる、日常生活に必要な算術、計算技術が庶民の必需だった。ほかに暦学への応用や純粋に数学的な興味から研究を重ね、微分積分学、平面幾何、立体幾何学の高度な領域にいたるものがあった。   
また趣味として数学の問題を作成したり、回答をを考えたりし、それを公開して数学者の間で腕を競ったり、神社などに絵馬として奉納したりしていた。

亀山藩の明倫館は関孝和を頂点とする関流和算、すなわち純粋な数学研究と研鑚に力点を置いていた。というのも教授方の堀池敬久は幼いときから数学を志し、その俊英ぶりは
 『神の如く数学を理解する』
と云われた。のち師を関流直系の神谷定令に求めるが、
学業成って郷里の亀山に戻るとき、師が嘆いて
  『私の数学は西に去るのか…』
神谷には沢山の弟子がいたが、敬久ほど才能に恵まれた弟子はいなかった。師は後継者として東に残ってほしかったのだろう。
だが彼は亀山に戻ってきた。

天保四年(1833)この正月に主君、石川総安公が亡くなられ、
養子の石川総記公が家督を相続したが、いまはまだ先君の喪が明けていない。しかし明倫館では授業は休むことなく続けられた。  
 今日は新しく九思堂に入学した生徒に、その堀池敬久が教えている。
  『諸士は算術とはソロバンで足し算引き算など
   やる世界だと思っているようだが、ほかにもいろ
   いろあって面白い。ここに昔に発行された
  「塵劫記」という数学の入門書がある。これに
   載っている問題をひとつ力だめしに、解いて
   みないか?』
にやっと笑いながら塾の中を見回す。そして
  『では出題する。
   ここに泥棒の集団がいる。ある日裕福な反物屋に
   盗みに入り、反物の生地を沢山盗んだ。盗人の
   親分は子分に盗品を八反ずつ分けようとしたが、
   七反不足した。そこでこんどは七反ずつ分けてみた
   ところ、こんどは八反も余ってしまった。さて盗人
   は何人?反物は何反か?』
問題を分かり易い盗人の話で出したのだが、ソロバンしかやってない生徒たち、なかなか頭で考えても答えが見出せない。
しかし泥棒の話が数学と繋がっていることに、皆は感心したようであった。少し時間が経ったとき、
  『はい、できました。』
東台に住む大目付の村岡八郎兵衛の三男、弥三郎が手を挙げた。
  『おう早いのう。では皆に答えを教えてくれ』
敬久の求めに
  『八反ずつ分けると七反不足、七反ずつ分けると
   八反余る。これは八反ずつ分けると七反分けより
   全体で反物が〔七足す八〕合計反だけ多く必要
   ということになります。
   つぎに一人につき一反多く分けると、全体で十五反
   多く必要と言うことは、盗人の数は全体で十五人。
   反物の数は八掛ける十五、引く七。または七に
   十五を乗じて八を加えると百十三となり   
   答えは盗人は十五人、反物は百十三反です。』
  『よくやった。はじめて学ぶのにたいしたものだ。
   これは盗人算といわれる初歩の数学なんだよ。
   ではもうひとつやってみようか…』
これを実際に求めた弥三郎は、和算の代数的な計算で答えを
出したのだが、それをそっくり現代の数学で計算すると次の
ようになる。盗人をχ、反物をyとすると
  −7+8χ−y=0……………@
   8+7χ−y=0……………A
A にマイナスを掛けて
−8χ−7χ+y=0…………B
つぎに@とBとをそれぞれ加えて
 −15+1χ=0
これより    χ=15
また@に7を掛けて
 −49+56χ−7y=0…………C
B に8を掛けて
−64−56χ+8y=0…………D
C とDを加えて
−113+1y=0
すなわち   y=113
現代の代数計算でも結構煩雑なのに、それを当時の一般人が半分暗算で計算しているのに驚くのである。
                    
 明倫館九思堂での入門学生へ熱心な講義は続いた。
教授方の堀池敬久はふたたび塵劫記をペラペラめくっていたが、
  『よし今度はこれがよいな、よく聴けよ…。
   花子が一升ビンを持って油を買いにいった。
   ところが店を出たところでビンを落として割って
   しまった。もうお金もないしビンも割れた。
   花子が店の前で泣いていると、親切な太郎が彼も
   一升ビンの油を買って店から出てきた。太郎は泣いて
   いる花子に油を半分分けてやるという。
   太郎は一升(すなわち10合)ビンのほかに七合
   入るツボと三合が入る徳利を持っていた。
   このツボと徳利を使って、太郎はどうやって
   油を半分に分けたのだろうか?もちろんツボと
   徳利には目盛りなど一切ついてないぞ。
   さあ考えてみてくれ…』
敬久の説明が終わると、熟生たちは一斉に半紙に筆を走らせた。
中には〔十、七、三〕と数字を並べたり、一升ビンと七合ツボ、三合の徳利の絵を描き、自分で目盛りを書き入れている者もいる。
  『さあどうだ、できたかな。』
敬久の声に誰も手を挙げない。
  『あれッどうした、さっきは弥三郎でも出来たのに、
   これはさっきの問題よりはやさしいんだよ。』
誰も出来てないのを知ると
  『では答えを云おう。
   まず三合の徳利でビンから二回油を汲んで七合ツボ
   に入れる。さらに三合徳利に満杯汲みいれる。
   このとき一升ビンには一合、七合ツボに六合、徳利
   に三合入っている。つぎにツボが満杯になるよう
   三合徳利の油を入れる。すると七合ツボは七合満杯、
   三合徳利は二合残っている勘定だし、一升ビンには
   一合ある。
    さてここからが大事だ。七合ツボにある油の全部を
   一升ビンに入れる。そして三合徳利にある二合を七合
   ツボに入れる。これで一升ビンには八合、ツボには
   二合の油がある。あとは一升ビンから徳利に三合
   の油を移せば一升ビンの油は五合になる。
   親切な太郎はこの一升ビンを花子に持たせ、自分は
   七合のツボにある二合と徳利の三合の油を持ち帰った
   というわけだ。』
このとき敬久が出題したのは油分け算という和算の基礎である。「塵劫記」と云う書は寛永四年(1627)、吉田光由が生涯かけて表した和算の書である。江戸時代にこの種の書籍としては何十万部という大ベストセラーであった。寺子屋などで数学を志すものは、必ず手本にしたものである。

明倫館では入門初心者向けの教程が終わると、だんだんと上級に進んでゆく。教授方の堀池敬久が学んだのは関孝和
(?−1664)に直接学んだ藤田貞資の弟子、神谷定令だから関流の正統派である。
関孝和の愛弟子、建部建弘(1664-1739)は円理の研究を重ね、
この領域を非常な高度に押し上げた。彼は円周率を少数点以下四十二桁まで計算できたという、これはその当時世界最高の水準であった。その彼に続く藤田、神谷ら研究者たちは、平面幾何と立体幾何の分野で成果を挙げる。
平面幾何では円、正方形、長方形、菱形、台形などが組み合わさった平面図形。また立体幾何においては球、円柱、円錐、立方体、直方体、円錐台などの組み合わさった空間図形が研究の対象であった。
堀池敬久はこの関流の奥義をことごとく会得し、独自の解釈を加えた解説本をものにしていた。
はじめて明倫館九思堂で数学の洗礼を受けた若者たちも、数ヶ月も経ないうちにかなり高度な難問も理解できてくる。
 
和算の先覚者、関孝和は、それまで漢字で表現されていた数値表現を、特別な記号で表現する方法を発見していた。
これによってわが国の数学が飛躍的に発展したのだが、堀池敬久も基本的にこの記号を使った計算方法をして教えている。
一例  
〔現代の表現式〕        〔関流の表現式〕
 a+b             |甲|乙
 axb 、 ab        |甲乙
 a÷b             乙|甲
〔数値の例〕
123~0までの数字   TUV~0とA列を縦の棒で表現
             −=≡~0とB列を横の棒で表現
3269  は        ≡‖⊥ш と表現
 また〔16ab〕は 〔|⊥甲乙〕 と表現された。

堀池敬久と息子の久道の二人による和算の解説書には
「要妙算法」七巻がある。これは天保二年(1831)に発刊され、久道著、敬久訂となっており、関流数学の初歩から奥義までを解説した教科書である。いま亀山歴史博物館に所蔵されている。
はじめて数学を学んでから、あまり日にちが経過しないのに、若者の向学心は研修内容を自ずから高める結果となる。
教授方の敬久は授業にこの「要妙算法」を用いはじめた。
                    〔続く〕

 
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