東海道の昔の話(97)
 谷文晁の日本名山図譜1 愛知厚顔  2004/7/12 投稿
 


 桑名は名古屋の宮の渡しから海上七里を舟で渡り、伊勢路、近畿、西国路への入り口にあたる。たんに交通の要であるだけでなく、軍事上の要害でもあったので、徳川幕府はここに城を築いて、最も信頼のおける四天王の一人、本多忠勝を初代城主に任命して守らせた。その後は三河以来の譜代、松平氏が城主として西の守りを固めている。この城域の半分は揖斐川と伊勢湾に突き出て、六万石の海の城としても非常に風格がある。

 今日はその城内の書院で二人の初老の男が話し込んでいた。
 『よく訪ねてくれた。息災でなにより、 
何年ぶりだろうかな…』
 『楽翁さまもお変わりなく、文晁も嬉しく
  存じます。』
 楽翁とは前の老中、松平定信である。彼は幕閣を辞職したあと隠居し、息子の松平定永が文政六年(1823)白河藩主から桑名藩主に移封されていたのに伴い、息子に従って桑名にやってきていた。いまは名前も楽翁として悠々自適の毎日である。
 もう一人の旅姿の文晁と名乗った男は、いまや日本第一の絵描きと称される谷文晁その人であった。
 『あれはいつだったか、江戸湾の防備計画のため、
  伊豆や相模を探査旅行したことがあったが、そちに
  同行してもらい、沢山の風景や地図を描いても
  らったことがあったな。』
 『はい。あれは殿様が老中に就任されて間もない、寛政
  五年(1793)でした。いまでも私はまだ絵の修行中で
  すが、あのころは狩野派の文麓先生や長崎派の
  玄対先生から、画風を真似するのがせい一杯、
  自分の画風を出せることなど夢の夢でした。』
 『いやいや、私は早くからそちの絵に秘めた煌き
  を感じていたなあ。あの後には集古十種の編纂にも
  協力してもらったんだ。』
 集古十種とは碑銘、兵器、甲冑、刀剣、馬具、楽器、その他を模写して編纂した図録である。このため寛政八年(1796)には彼は近畿、河内、奈良を尋ねる旅をしていた。

 『あのとき何度も正式にお抱え絵師になれと
  頼んだのだが…』
 『殿様からは何度も専属に…とのお話を給わりま
  したが、まだまだ未熟者でしたからご遠慮申し
  上げました。もったいないことでした。』
 『いま思えば、お抱え絵師にならなくて良
  かったよ。一人に縛られていたらいまの文晁はな
  かった。風景画、山水画の世界ではいまや
  第一人者だからね…』
 『恐れ入ります。殿様とはその後もご一緒に絵の
  仕事をさせて頂きました。私の若い頃は殿様抜
  きでは考えられない、充実した毎日でした。』  
 『それがある日突然私の元を去っていった。やはり
  画に悩み苦しんでいるな…と思ったな。』
 
 谷の家は代々、田安家に仕えていた。
田安家は八代将軍吉宗の第三子宗武が創始した家である。
文晁も二十五歳のときこの田安家の絵師として勤めていた。
松平定信はこの田安宗武の子供であった。その縁で文晁もこの定信から厚い信頼と庇護を受けていた。  
 定信が奥州白河の藩主になると、文晁もたびたび江戸から白河に招かれている。それは主従という間柄ではなく、画を理解する者と画に精進する者との、人間同士の付き合いであった。
 定信はやがて老中として幕府中枢に入り、日本の政治を動かすことになる。ことに寛政の改革路線を実行し奢多快楽を戒め倹約財政の引き締めを遂行した。また大黒屋光太夫の帰国に際しては強国ロシアに対し、一歩も引かぬ交渉を展開し手腕を発揮した。
 幕閣では汚職の噂が絶えなかった田沼意次を追放し、精錬潔癖な主張を繰り広げたが、抵抗勢力の壁は厚く、彼の意図した政治改革の完成を見ることなく、老中を辞任せざるを得なかった。

 『昔は遠くなりにけり、私も政治の世界は本当に遠く
  なってしまった。お互いに年はとりたくないも
  んだが、いまは私も趣味の陶芸と読書と著作三昧の
  楽隠居の身、好きなことをして過ごしている。
  それで今回はどんな絵を描く旅なのかな?』
定信は話題を変えてみた。
 『はい。ここしばらく前から、ある人の依頼で全国
  の名山を描いて旅をしています。昨日はこの城
  からもよく見える多度山を描きました。』
 『なるほど。ある人というのは奥州南部の川村錦城では
  ないか?。彼は医師でありながら絵に造詣が深く、それに
  詩も吟ずるということを聞いたことがあるが…。
  さて、その多度山の絵を見せてほしい。』
 『まだ未完成ですが、これが多度山です。
  錦城からはいくら月日をかけてもよいから、日本中
  の名山を描いてほしいと頼まれました。すでにこれ
  までに五十数座を描きました。』
 定信は多度山の絵をじっくりと眺めた。文晁の絵は揖斐川の河口に浮かべた舟の上から山を見た構図になっていた。
左の川べりにあるのは東海道七里ノ渡しである。対岸に渡る渡し舟が漕ぎ出され、桑名と熱田を往来する帆船が停泊している。
 『うーむ見事。これはもう狩野派と長崎派、そして清風に
  円山派を加え、それを越えた南北合一とも云うべき
  画風だ。山水画ではもはや谷文晁の独断場だ。』
定信は感心した。かっての稚拙な画に苦しんだ若者は、いま堂々とした画風を確立して目前にあった。

 『それでこれからの予定は?』
 『はい。伊勢の国であと数峰、それから伊賀国でも描き
  たいと思っています。』
 『鈴鹿の山では菰野山とか冠ケ岳が知られているが、
  亀山城から眺める百杖岳という山の姿が素晴らしい。
  ぜひこれを描いてほしいな。あそこは亀山藩領だから
  石川公に紹介状を書くから、それを持っていくがよい』
定信はすぐに紹介状を認めて文晁に持たせたのである。
 やがて薄暗くなってきた。久しぶりの対面を懐かしみ、時の経つのも忘れていたのだが、やがて別れがやってきた。
 二人はこのあと二度と会うことはなかった。二年後の文政十二年(1829)、松平定信が七十二才で没したからである。

谷文晁〔日本名山図会〕から〔多度山〕

                       〔続く〕

 
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