集中豪雨の後           仙の石 50代 会社員 2003/5/20投稿
  それはすごい降りだった。1974年(昭和49年)7月25日の晩は未曾有の集中豪雨が亀山を襲った。
市史によれば降雨量は380mm建物全壊13戸 半壊10戸 床上浸水208 床下浸水726 となっている。夜半から雷鳴と共に今まで経験したことが無いまるで滝のような豪雨が続いた。
夜が明けると雨もやんでおり高台にある我が家は特に異常も無かったが西小学校のグランドに行くと自衛隊のヘリコプターが頻繁に発着していた。
聞くと野登、辺法寺地区が橋の倒壊で孤立状態だという。当時、辺法寺に関連工場があったので様子を見に行くことにしたが安楽川にかかる橋は全滅状態で車では行けなかった。
ちょうど部分的に通行可能になったばかりの東名阪自動車道で近くまで行き土手を下ってやっと辺法寺に入ることができた。
工場はすでに水は引いていたが床上1m位まで水につかったそうでその跡がくっきり残っていた。
心配していたモーターは絶縁ゼロでまったく使える状態ではなく油圧タンクの中は泥水であふれていた。
10台以上あるモータを修理などしていたらとても翌日の生産に間に合わないのですべて新品を緊急手配し油の代わりに泥水の入ったタンクを総出で清掃した。
まもなく名古屋から届いたモータは肩に担いで名阪の土手から降ろした。
問題は辺法寺につながる橋が無いのでどうやって加工ができた製品を本工場に納品するかだった。
名阪は通れても高架であり土手に仮設の接続道路を付けるしかない。地域と名阪の工事事務所の間で切迫した折衝が行われたそうである。こんな情景だったそうだ。
工事事務所:「料金所こそ無いが有料区間であり進入道路は付けられない。」
地元:「そんな気なら今後の用地買収に一切応じないぞ!」
それが県知事のT氏が災害地の視察にくるというのでなんとその日のうちにブルドーザーが動きたちまち土手に新しい接続道路ができた。
こうして翌日の月曜日には無事に製品が届き生産ラインを止めることなく奇跡的に復旧できた。その当時が絶調期だったT氏は国会議員をしばらくつとめたが晩年は2度の選挙に敗れ政界からその姿を消した。
それにしてもあれだけの豪雨で犠牲者が一人も出なかったのも奇跡に近かったそうである。
 
絵で見る1974年7月豪雨 絵:宮崎観峰氏
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