伊勢湾台風の記憶   仙の石 50代 会社員 2003/5/20投稿
  伊勢湾台風を覚えている世代も少なくなってきた。
1959年(昭和34年)9月26日は土曜日だった。私は当時小学校5年生だった。学校で先生が黒板に下手な日本地図を描きながら今度の台風は極めて大きいからどちらに進んでも日本の大部分が影響を受けると説明していたことを覚えている。早くから暴風雨警報が出て学校から帰ったがまだ晴天で台風の来る気配など感じられなかった。
テレビなどある家はほとんど無かったからラジオが情報のすべてだった。夜になると風雨が強まりまもなく停電となってローソクの明かりだけで母と姉の3人でじっとしていた。当時市役所に勤めていた父は防災出動で不在だった。電池式のラジオなど庶民の家には無い時代だから情報も無くただ耐えるだけの長い夜だった。家がぐらぐら揺れて今にも倒れるのではないかと恐ろしかった。姉は恐怖で泣いていて母が今が一番強い風だからとなだめていた。少し風がやんだとき窓から外を見ると夜なのに空が青く光っていた。あれはなんだろうと言い合ったがその時はわからなかった。夜が明けて外に出るとあちらこちらで樹木が倒れ近くの山に行くと大きな松の木がことごとく根元から倒れていた。夜空が青く光っていたのは高圧送電線のショートだとの噂だった。
電気も新聞も何日間か来なかったのでよその様子もわからず、ただ落ちた栗を拾って楽しく遊んだ覚えがある。
学校が始まると先生から被害の聞き取りがあった。家が倒壊した級友もいた。何日か後、新聞が届くと名古屋周辺が水没し人々が屋根の上で助けを待つ様子が知らされた。ラジオはひっきりなしに被災情報を流していた。当市も相当の被害があったはずだが子どもにはわからなかった。5000人余の人が亡くなり各クラスで黙祷をした。黙祷とは何かわからないままの初めての経験だった。
10月に開かれた運動会は派手な音楽も自粛し賞品は返上してすべて被災地に送った。ところがその晩、運動会を終えた打上げで先生たちが学校で酒盛りをし、その騒ぎ声が道をはさんだ向かい側の市役所の記者室まで聞こえたそうな。子どもたちは賞品を被災地に送ったのに先生たちは酒盛りをしたと新聞に書かれひんしゅくをかった事が、なぜか今でも鮮明な記憶として残っている。

 

 
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