東海道の昔の話(110)
    流されびと英一蝶 2   愛知厚顔  2004/8/9 投稿
 


 この元禄時代は徳川幕府二百六十年のうち、もっとも絢爛豪奢の風が瀰漫したときである。学門が興隆し多くの学者人材が輩出した。
 国文学でも下河辺長流や僧契沖がおり、俳句では松尾芭蕉が活躍した。また井原西鶴はいくつかの浮世草紙を出し、近松門左衛門は浄瑠璃で傑作を書いた。また歌舞伎でも市川団十郎が歌舞伎十八番を創始し江戸の人気を煽った。
紀之国屋文左衛門、奈良屋茂佐衛門、中村内蔵助、淀屋辰五郎などの豪商が生まれた時代でもある。
元禄時代は豪放華麗、それは武士に対する経済力をつけた町民がリードした時代でもある。

 英一蝶は画を狩野安信に学んでいたとき、同時に書や俳句も親しんでいた。ことに俳句は松尾芭蕉に教えを乞い、友人に服部嵐雪、宝井基角がいた。彼自身も俳号を暁雲と名乗って句を詠んだ。基角は彼より十歳も年長だが、一蝶とはよく気が合った。
基角は一蝶から絵を学び、一蝶は基角から俳句を学ぶ間柄だった。
 あるとき二人は深川の芭蕉宅を訪問した帰り、日が暮れかかっているとき、道傍で桶屋が桶の箍(タガ)掛けをしていた。
それを見て一蝶が
   たがかけのたがたがかけて帰るらん
と詠んだ。その後を基角が
   身をうすのめと思ひきる世に
すぐ引き取って詠んだ。これひとつ見ても一蝶の才能は絵画だけででなく、文学的教養も持っていたのがわかる。

 一蝶は狩野安信の門に在籍していたとき、狩野派の画法を完璧に自分のものにし、師の安信を越えると評された。もともと一つの流派に縛られ満足できる男ではない。狩野派の絵は山水すなわち仙人が主体であり、人物では七福神とか釈迦、達磨、竹林の七賢人などに終始する。
 彼はもっと江戸の町の賑わい、町民の生活や表情を描いてみたいと思った。つぎに彼が目指したのは岩佐又兵衛と菱川師宣の画である。彼らはのちに浮世絵と呼ばれる、市政の大衆を対象とした新しい絵を画いて成功していた。
  「岩佐、菱川が上にたたん事を思ひて、よしなき
   うき名のねざしのこりて、はずかしの森のしげき
   こと草ともなれり」
菱川師宣や岩佐又兵衛も越えてみせるぞ…と、彼自身が述べた決意の言葉である。そして吉原など遊里へ基角や嵐雪たちとせっせと通って遊んだ。

 そんなとき、大伝馬町のある豪商の妻が
 『達磨が九年間も座して壁に面して修行したそうだが、
  そんなもの私に較べたら大したことはない。私など
  十年も日夜見世を張って苦労した。達磨が九年なら
  私は十年だから、達磨よりも悟りを開いてますよ。』
と云って笑った。彼女は吉原の遊女出身である。この話を聞いて一蝶はたちまち半身の達磨を花魁の顔にして描いた。これが世間に知られると
  「すばらしい絵だ。これは女達磨の絵だ。
   一蝶とは誰なんだ」
と評判になり、たちまち彼は有名人になってしまった。この女達磨の絵に市川某が
     そもさんか是こなさんは誰
と賛美の歌を入れ、また俳人某も
     九年母も粋よりいでしあまみかな
と詠んだといわれる。
 
 英一蝶は洒脱遊蕩の世界で知られる存在になった。
 そのうえ紀之国屋、奈良屋などの豪商の取り巻きにも入り、遊蕩三昧の毎日を送る。もっとも元禄時代は世間あげて遊蕩に走る時代だった。
 この頃に一蝶が作り遊里ではやったという唄がある。
 「待つ乳しずんで、梢のり込む今戸橋、土手の合傘、片身変わ    
  りの夕時雨、首尾を思へば、あわぬ昔の細布、どう思うて
  今日は御座んした、そう云うことを聞きに。」
数年前のNHK大河ドラマ「元禄繚乱」では、片岡鶴太郎が英一蝶に扮し、金にあかせて遊里を徘徊させていた。

 一蝶は有馬家からも大変贔屓にしてもらっていた。
ある日同家からの注文で六曲屏風の絵を描き、二百両の代金を貰った。彼はその金をもって帰る途中、道具屋に立ち寄り石燈籠を現金百両をポンと払って買ってしまった。
 この燈籠はさる大名もほしがっていた品である。それを張り合って買い込んだのだった。
一蝶はそれを持ってきて家の庭に据え灯火を入れる。
夏の夕闇も濃い庭先を眺めながら、出入りの八百屋が置いていったはしりの茄子を一品だけ膳に乗せ、これを肴に酒を飲み
  『天下にこれほどの贅沢はないな』
とうそぶいたという。彼の豪放な性格を彷彿とさせる話である。

 そのころまた一蝶は民部遊扇と角蝶という遊蕩仲間ができた。
遊扇とは鎌倉仏師の末裔にあたる大仏師。仏師でありながら彫刻もロクにせず、せっせと遊郭通いをしている。また角蝶とは本名が村田半兵衛という本石町に住む商人である。
 遊扇は醜男で角蝶は美男という組み合わせだった。
この遊扇が根っからの悪知恵の持ち主であった。
彼は若いとき仏師の仕事仲間の一人の男を殺害したが、正当防衛を主張してごまかし、三年間の江戸追放に終わった経歴の持ち主である。

 ある日、この一蝶、遊扇、角蝶の三人が退屈まぎれに
  『何かほかに面白い金儲けはないか…』
と相談し、出来上がった計画が
  「当世百人男の絵を売り出そうや」
これはこのころ江戸で有名な男ばかり百人を選び、百人一首そっくりに文章をつけて描くというもの、百人は大名も役者も町人も僧侶も学者、役人も含めるという。
  『いやあこれはいい、絶対売れるぞ!』
さっそく一蝶が絵を描き、文章は医者の圭斎が得意だというので彼を仲間に引き入れた。
 やがて百人男の絵が江戸の町に現れると大評判になった。描かれている男たちが、いずれも身近にいる存在であり、中の文章も傑作だったので、人々はこぞって絵を購入したのである。
 ところがこれが幕府老中の目に留った。幕府は
  『このような絵は世情の風俗を紊乱させるものである。
   放置すると御政道に影響が及ぶ恐れがある。』
と町奉行所に取り締まりを命じた。そして圭斎を含む四人が逮捕され、御白洲で詮議を受けた。一蝶と角蝶、遊扇の遊び仲間はかねてこのことを予想していたので、下絵や書き損じなども一切整理してあったので
  『私どもは知りません。』
と強硬に否定する。そこで役人が圭斎の私宅を捜索すると、沢山の下絵が出てきた。
  『私は彼ら三人に頼まれてただけ、主犯は彼らです。』
と主張したが、これだけ証拠が出ては言い逃れできない。
 圭斎が主犯とみなされ刑に処せられた。
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