東海道の昔の話(111)
    流されびと英一蝶 3   愛知厚顔  2004/8/9 投稿
 


 しかしこんなことで怯む遊蕩仲間の三人ではない。
こんどは大名の井伊家の御曹司を遊びに誘う。井伊家の御曹司は二年前に家督を相続したばかりだが、十三万両の大金が自由にできた。
 大名でありながら連日遊郭に通っていた。その彼をいつも取り巻いていたのが一蝶らの三人である。御曹司が遊郭にいくときは最低でも百両の現金を持参した。そしてちょっとした茶代に三両五両も払う。
こうして一蝶らを手下に使って十万両も散財したという。
 あるとき遊里で琵琶の名人法師で進藤検校、市川検校、本沢検校ら一流どころを集め、平家琵琶を楽しむ趣向が催された。そのとき進藤検校らの語りが素晴らしかったと云うので
  『これを取らせよとの殿の御意向である』
と遊扇が勝手に井伊家の付き添い人に指図し、進籐と市川に百両ずつをポンと検校に与えた。そして
  『この催しを計画した者にも与えよ』
と、またも付き添い人に指示し、英一蝶にも百両を与えたのである。
 こんな琵琶の会ひとつに三百両もの大金を浪費されてはたまらない。
まもなく井伊家では御家改革を行い、この遊興仲間の三人の出入りを禁止してしまった。

 つぎのカモは本庄安芸守という大名だった。
彼は本庄因幡守の次男である。因幡守は五代将軍綱吉の生母桂昌院の実兄という立場。羽振りも金回りもよいはずだった。
 この本庄安芸守が桂昌院の御女中の一人に惚れ、ひそかに妾にしていたが、いつか桂昌院にバレそうになり、遊扇の妻に押し付けてしまった。そんなことからこの遊蕩仲間三人は安芸守に貸しが出来ていた。
 彼らは機会を見つけては遊郭に安芸守を誘って散財させ、自分たちもオコボレに授かっていた。ところがこの大名は風変わりなところがあり
  『いずれの女も余を大名と敬って扱う。面白くない。
   たんに一人の男としてみる女はいないのか。』
もっともである。遊蕩三人組は頭をひねって考えたところ、一人の遊女が思い当たった。それは茗荷屋の大蔵である。
  『殿、一人思い当たる女がいますが、少し心配な
   ことがあります。』
  『それはなんじゃ』
  『大蔵には小指が一本ありません。それはかって
   小指を切って愛した男に操を立て、愛を誓った
   からです。』
安芸守はそれを聞くと大変気に入り、さっそく大蔵を座敷に呼んで大尽遊びが始まった。そして小袖を五かさね、夜着布団を二組、衣服はもとより、やりて婆さんにも小袖をプレゼントする。
あげくの果てには
  『よし今年いっぱい大蔵を一人占めするぞ!』
連日連夜の遊興ぶりであった。あまりのおおっぴらな安芸守の遊郭通いは、いつしか公儀の目にとまるようになる。
 一蝶、遊扇はこの情報を知ると
  「これは早く身請けさせるに限る」
と、安芸守から九百両を受け取り無事身請けをしたのである。
しかしあまりの派手な遊興ぶりに、これ以上はだまって放置できない。
町奉行所は再度彼らを逮捕した。そしてはっきりした理由を告げないまま、二ヶ月間も拘留したのだった。
 これは正直に生活をしている市民の感情からみて、もっともな処置だったのかもしれない。

 しかしこんなことで挫けるような一蝶ではなかった。
遊び仲間の有力な大名たちの裏工作もあり、自由を回復するとすぐに派手な遊蕩生活を始めた。高位の人々や豪商を背景にした驕慢な振る舞いは、神も仏も恐れない大尽遊び。人々は眉をひそめた。
  「お仕置きにもいっこうに懲りていない」
  「またも派手に遊んでる」  
  「もはや放置できない。」
幕府は決断した。
 元禄十一年にまたもや彼を拘置したのである。
その理由は彼が描いた〔朝妻舟〕という絵にあった。それは近江国坂田郡朝妻の港から、琵琶湖を大津まで渡る舟があり、白拍子が客を誘う情景を描いたもの。その画の中の女がときの将軍綱吉の側用人として絶大な権力を持つ、柳沢吉保の妻に似ているというもの。
この吉保の妻をひそかに将軍綱吉が愛している。世間ではまことしやかに噂されていた。そんなときの画だったからたまらない。
 これは綱吉を揶揄したものとされたのである。
この島流しの罪状話はいくつもある。諸説入り乱れてはっきりしていない。もう一つの逮捕理由は
  「馬が物を言う牛が物を言うという、戯作を書いただろう」
 これは将軍綱吉の生類御憐れみの法度を皮肉るもの。馬が物を言うとは将軍綱吉のことを指す。彼は将軍になる前は館林右馬頭と名乗っていた。牛が物を言うとは柳沢吉保のこと、彼の幼名が牛之助だったからだ。この戯作は英一蝶はまったく知らないことなので
  『私どもはまったく知りません』
と否定し続けていのだが、町奉行所の役人は
  『これまでの行状からみて、その方らの仕業に違いない。
   神妙にいたせ。』
と、強引に牢屋送りにしてしまったという。ようするに逮捕理由は何でもよかった。あまりにも目に余る遊蕩ぶりが彼らの罪だと云うべきだろう。
 そして元禄十二年(1699)十二月に三宅島に島流しにされたのである。

 一蝶は四十八才になっていた。
遊蕩仲間の遊扇と角蝶も八丈島に流されてしまった。遊扇は四十五才、角蝶は三十五才だった。
 英一蝶らが霊岸島から島送りの船に乗る日がきた。
親友の宝井基角も大勢の見送りの中にいる。一蝶は友の厚誼に感謝して涙を流した。そして
  『三宅島はクサヤの名産地です。流人はクサヤを
   作らされるそうだ。島に生えている椎の葉を
   私は干物のエラに挟むから、もし江戸の魚屋
   で椎の葉をつけたクサヤを見つけたら、私が
   まだ元気でいると思ってください。』
と告げたという。
 クサヤはむろ鯵のひらきで作った伊豆諸島の特産品である。鯵の臓物で汁を作り、それに浸して日干しをするため、独特の強烈な匂いを放つ。味は絶品だが匂いのために人により好みが分かれる。
クサヤの名前はその匂いからきている。
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