東海道の昔の話(131)
   北条早雲との対話 2  愛知厚顔  2005/1/25 投稿
 


【応仁の乱のころ】

厚顔『京都に上られたのは寛正五年(1464年)ごろですね?。
   そして室町幕府の将軍、足利善政の義弟の足利義視の近侍とな
   られた。』

早雲『私の生まれは永享四年(1432年)ですから、この年は二十三歳
   です。そのころとしてはかなり遅いスタートですね。
   そして仕えたのが将軍ではなくその弟の義視殿でした。
   これは私の生涯に大きな影響を与えたことになります。』
厚顔『足利義政が約束どおりに将軍職を義弟の義視に譲っていれば、
   応仁ノ乱も起こらず、貴方もそのまま出世し幕府の中枢で
   活躍されたと思われます。』
早雲『しかし義政と日野富子夫妻の間に義尚が生まれる。我が子可愛
   さにこの夫妻は義視との約束を破り、義弟と子の義尚との後継者
   争いを始めたのです。やがて雲ゆきが怪しくなり戦になりました。』
厚顔『貴方は応仁の乱が始まる直前から、その真っ只中にいたわけですね』
早雲『応仁元年(1467年)正月。乱が勃発しました。将軍の義弟、
   足利義視は東軍の細川勝元に擁立される形をとり、一時期は身の
   置き所がなく、伊勢国に落ちていきました。近侍である私も伊勢へ
   同行しました。』
厚顔『そのころですか、貴方は主人の伊勢貞親と二人で亀山城の関氏に
   匿われていたのは…。』
早雲『そう、数ヶ月ぐらいでしたね。しかし翌、応仁二年(1468)情勢が
   突然好転しました。足利義視が京に迎えられ戻ったのです。
   私の主人は情勢をみて京都には戻っていきました。しかし私は
   そのまま亀山城を出て京都には戻りませんでした。』
   そう、そのまま伊勢に留まったのです。要するに浪人の身になった
   んです。私の素浪人説はここから出たと思いますね。』
厚顔『その後はどうされた?』
早雲『あと私は駿河国ヘ下っていきました。それは前年に応仁の乱が
   始まったとき、駿河守護の今川義忠が兵を率いて上洛し、東軍
   に加わって滞陣中、私の妹、北川殿を見初めて結婚していたから
   です。この今川を頼ったのです。』
厚顔『妹の北川殿が兄の貴方の浪人を知り駿河に呼んだのか、あるいは、
   「夫義忠の補佐をしてほしい」と云ったのか、どちらですか?』
早雲『両方でしすね。足利義視に同行し京都に戻らなかったのは、
   この将軍家の内紛を見てイヤ気がさしたのです。私が駿河国に
   行ったのはこれが主な理由です。駿河に下った私はしばらくの
   間何も目立った活躍をせず、時節出番の到来を待ってました。』
厚顔『やがて貴方に出番がまわってきた。文明八年(1476年)四月、
   遠江に攻め込んだ妹婿の今川義忠が戦死された。この義忠と
   妹の北川殿との間に生まれた龍王丸はまだ六歳。こんどは
   今川家の中で家督争いが始まったのですね。』
早雲『絶好の機会でした。私はこの家督争いを収拾し今川家中で重要な
   立場を獲得しました。』
厚顔『この当時、今川では「龍王丸が成人するまで」という約束で家督
   代行をしていた小鹿新五郎範満が龍王丸に家督を戻さない。
   そこで長享元年(1487年)十一月、貴方は駿府今川館に小鹿を
   急襲し、龍王丸に家督を継がせ元服して氏親を名乗らせた。』
早雲『氏親は功労者であり、伯父にあたる私に恩賞として興国寺城
   を与えてくれました。これは私自身が希望したものです。私は
   今川領の東の守りを任されたのです。』
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