東海道の昔の話(176-1
 地誌に記された仙鶏の山域  愛知厚顔  2012/6/13 投稿
 


 はじめに  
 江戸時代の地誌といえば、安岡親毅の「勢陽五鈴遺響」(天保5年1834)に代表される。なかでも亀山市地域にある野登山、仙ヶ岳、御所平などの部分は、他の山域に比べて非常に詳細に記されていて、いま読んでも驚くほどである。
 それは安岡親毅の遠い祖先が御所平にゆかりがあるとか、ひとかたならぬ入れ込みがあったと自身が述べている。鈴鹿でも御在所岳など観光化した山よりも、自然が豊かなこちらの山域の方が登山愛好者にとって魅力があり、四季を通じて多くの人が訪れる。だがこの地誌に記載されている山、尾根、沢、岩などの名が、いまの地図にはほとんど記載されていない。
 時代の経過とともにいつしか風化したのだろうが、坂本などで古老に聞いてみると、まだ一部は確実に場所が比定できる名もある。 私は60年以上もこの山に親しみ安岡親毅と同様に愛着を持つ。ところが高齢になり体力が衰え山も登れなくなった。ヒマにあかせて日ごろから疑問を感じていた地誌にある名と場所、これはいったい何処なのか…調べてみたい意欲が湧く。最近になって登山現役の友人の協力を得、少しばかり山域を検証してみた。
 私は遠方に居住し情報も得がたいので間違いが多い。地元の方から誤りを指摘され修正するのは当然である。


       【石谷川と御所平】
 勢陽五鈴遺響の地名や距離など今日のものと合致しない点が多いが、地形図を片手に見比べながら読むとけっこう面白い。
 「御所ヶ平ト云アリ、多気国司信意径廻ノ地ニシテ、山渓ノ間暫ラク幽棲ス木造殿
  ト称シ故ニ御所平ト云、樵夫ノ伝ナリ此処ニ至ルハ池山村ヨリ山径アリ、字ハ
  西矢原ヲ経テ五丁許、三個所ニ深谷ノ淵アリ」
 織田信長の息子信意が伊勢国司の北畠家へ養子に入り、北畠信意と名乗ったのだが、彼はまた木造殿とか御所殿とも云われた。本能寺の変のとき信意はこの御所平に砦を築き、敵の来襲に備えたという。信意の砦なので御所ヶ平と称されるが、これはあくまで地元の樵夫の言い伝えだという。この山へ登る道は現在の林道ではなく、池山から西矢原を経た山道だとすると、石谷川の流れのすぐそばを通る樵道だろう。そして途中からいまの林道とほぼ同じルートになる。御所平まで5丁ばかりの間に3ヶ所ほどの深い淵があるというが、この1丁の約110bを換算しても実状と合致しない。
おそらくいまの石水渓キャンプ場あたりから石谷川沿いの道に
入る。足で歩いた感覚距離であろう。ルートには幾つもの深い
淵や瀑布があり、これを高巻きしたり渡渉したりする難路である。   
 「是四丁登テ長者岩ト云巨岩アリ、其大岩ノ中ニ井泉存ス、
  其次ニ烏帽子岩、形彷彿タリ次ニ八丈滝ト云飛泉アリ、
  高五六丈許、傍ニ袈裟掛岩、長持岩、各大巖ナリ」
 4丁ほど登ると長者岩という巨岩があり、その大岩の中に井泉があるというが、恐らくこれは頂礼井戸だろう。2段15bの滝だが道から覗くだけでは、水が岩の間から湧出ているようには見えない。土地の人が琵琶湖に通じるという井の存在を信じているのだろう。贔屓目には滝の左の岩が烏帽子そっくりに見える。八丈滝という滝は高さもあり傍らに袈裟掛岩、長持岩の大岩があると云うが、いくつもそれらしき大滝があって該当する大滝はどれかいまも判らない。
 「スベリ石、小居場小仏ト名ク、山坂アリ此所漸ク平坦ニシテ七ツ釜炭焼場ト
  云ヲ経テ此処ヨリ至テ険難五六丁許ヲ歴テ山岨ヲ攀上ル、瀬戸禿ト云処甚危路也」

 スベリ石は頂礼井戸のすぐ上にある花崗岩の巨大な一枚岩、清冽ば
渓流が静かに滑るように流れている。こんな石はほかにない。この石にまず間違いない。では小居場小仏はいまの何処なのか…、疑問に思った友人が
市役所観光振興室で紹介された詳しい方に聞いたところ
 『小矢場峠コースと指導標がある石谷川沿いのルート
  で、いまは整備されておらずほぼ廃道になっていま 
  す。起点は石谷川大堰堤、終点は石谷川林道です。
  小矢場峠は峠の形状をしていませんが、石谷川林道
  の小矢場峠コースという道標の位置です。むかしは
  ここに小さな石仏があり、小居場小仏と呼ばれてい
  たようです』



  
                  
 山坂を過ぎたところに平坦な地があり七ツ釜炭焼き
 場と云う、これはいまの営林小屋の廃屋があるあた りだろう。炭焼釜跡がいまも残る。七ツ釜炭焼き場
の近く葺谷が合流し、すぐ下が七ツ釜で深い淵が下から径2b大から3b大が4個その上に最大の径6bの釜があり、さらに3b径が2個も上に連続している。そのすぐ左岸が七ツ釜の炭焼き場である。
葺谷をつめて御所平に至る登山路もある。
ひところ昔は植林やシキミ、サカキなどを採取する
人が登り下りに利用していたが、いまは木橋や桟
も腐食して通行は困難で危険をともなう。
(注:現在橋は補修済みだが危険場所が多い)
ここから険阻な道を5、6丁ばかりを登り、また急な山岨すなわち尾根を上ると瀬戸禿という処に出る。この険阻な尾根を登る理由はどうやら「白雲ノ滝」の高巻きらしい。瀬戸禿とは瀬戸谷源流のガレ場。そこは風化した花崗岩の砂礫で埋まり、足元がずるずる滑る甚だ危険な道である。禿とはガレ場を指す。  

 「白滝アリ、又五六丁許ヲ登テ舞床ト云アリ、又五六丁ヲ歴テ萱原ノ平墟ノ地ナリ、
  是ヨリ仙ヶ滝ハ北ニ望メリ針盤ヲ試ルニ坤位ニ至レリ、仙ヶ嶽ハ西ニアリ此処
  ヨリ正酉ニ折テ山岨ノ難処ヲ下リ其処ニ御所滝ト云アリ、高五丈許、左傍ニ滝
  ノ旧昔ノ水道ト云アリ」 

 眼下に見える白滝というのは、右岸の登山道が岩壁にクサリがある場所、その岩壁はかって五葉松採取の人が転落したり、老猿が落下したりの高き危険な場所だ。ここから下にゴウゴウと落下する8bの滝が白滝だろう。
 この滝は岩壁の途中から川床に下りて間近で見ることもできる。
 舞床というのもはっきり判る。大堰堤の手前にあるブナの平坦な二次林地帯であり、炭焼き窯跡が残っている。かっては萱原だったのだろう。ここから少し遡ると左に御所谷と右の白谷と別れる。コンパスで計ると仙ヶ滝は北に望めると云う。いまは大堰堤に阻まれるが、右から堰堤に上れば広い砂地のむこうに美しい大滝がある。

 この滝は石谷川系のなかでは第一の17bの落差を誇る。登山者は白谷の大滝と呼ぶ。他にも仙ヶ滝と呼ぶ滝があるらしいが、私はこの滝こそ仙ヶ滝だと思っている。
 ここから西南に向かって進む。仙ヶ嶽の山頂はまだ隠れているが西の方角になる。真西に向かった山岨すなわち尾根の難所を下る。御所滝は入り口に5bの滝、その上に2段6b滝、さらに釜を持った10bと同じく10bのナメ滝が連続している。これらはいずれも記述のとおりである。御所滝はこの釜を持つ10b滝を指す。また滝の左側に古い滝が流れた溝跡が残っているのも記述のとおりだ。    
                 
 「此処ヨリ直ニ登ルニ砂石足に随テ転落テ路険ニシテ
 左右ニ巨岩掩ヘリ、是御所ヶ谷の喉口ナリ、一ノ谷ト
 名ク、老樹繁茂シテ甚多シ、樵夫云信意の植ラル所
 ナリト伝ヘリ」
御所谷の入り口から急な直登となる。風化した花崗岩の砂  
礫は足にまとわりつく、ガラガラと落下して危険なことは云
うまでもない。左右には巨岩が累々と重なる。
これが御所ヶ谷の喉元からの有様なのだが、これはいまも
まったく変わっていない。

 


    【御所滝】      一ノ谷の場所は特定できないが、おそらく地元がコシガ谷と
 呼んでいるあたりだろう。ここで繁茂している樹木を樵夫たちは北畠信意が植えたものと伝えている。

  「此処ヨリ二三谷ト云ヲ経テ雑樹葱鬱蒼タリ漸ク攀登リテ、家老ヶ平、小姓ヶ平
   ト云地アリ、巽位ニ熊尾山聳タリ、北ハ此処ニ処リテ小岐須山の界ナリ」  
       
 この御所谷から御所平に登る道、これはいま相当荒れている。二三谷はどれか源流の枝谷のひとつだろう。ここを過ぎると、ようやく二次林、雑木も矮小となり登り終えたところが平坦な御所平。そのなかで家老ヶ平、小姓ヶ平と呼ぶ所があるというが、全体が緩い傾斜の広闊とした土地なので、どれがこれらの平なのか想像するしかない。南東の方角に熊尾山が…これはいまの明星ヶ岳とも思ったが、聳えると形容していることから、遠くに見えるのは経ヶ峰820mかも知れない。ここから北への稜線は近江と伊勢側小岐須山との境界になっている。
                     
   「是ヨリ直に登リテ御所ノ旧墟、封彊ノ威儀ヲ現ニ存セリ、石壁散乱シ蒔砂アリ
    萱原平坦ノ地ニシテ北ニ望テ平ナリ、此地東ハ山渓相畳ナリ、南ハ平ニシテ
    開リ、其次ニ渓間二条ヲ渉リテ十二三許ヲ歴テ西ノ山岨ヲ攀登レハ仙ヶ嶽ナリ」
 
 登り終えるとすぐ近くに旧砦跡があるという。天保5年当時は石壁が散乱し蒔砂もあったのだろうか、いまはいくら探してもそれらしい痕跡は見つからない。御所殿の砦跡があった証拠はシャクヤクが生えていることだと云う、シャクヤクは中国が原産で中世に我が国に入ってきてから品種改良されたもの、もし見つかれば自然の自生はありえないから、北畠信意が植えたという話に信憑性が増す。だがまだ私は発見できてない。
 御所平のやや下段にもう少しせまい平坦地があり、これを家老平と云うことが「石水渓」という冊子に出ている。北畠信意の従者が隠棲したとされ、ここから発掘した刀の鍔の写真も数枚載せている。この冊子には太郎左エ門、次郎左エ門の名が出てくるが、近江側に太郎谷、小太郎谷があり、こんな符合する名に不思議さを覚える。
 だが歴史研究は素人なので冊子の内容も信用する。刀の鍔などの出土品は池山の資料室に保存されているそうだが、私はまだ見ていない。
 ここの低い灌木とススキとササからなる原は北にかけてずっと平坦、この地形と植相は数百年を経ても変わっていない。ここから東は山と深い谷が重畳している。南は平地が続いて開けている。またつぎに渓間(鞍部のことか)を12〜13丁ほど西の尾根稜線を登れば仙ヶ岳に至る。記述の方角が少し現状と合致しないが、おおよその位置は判別できる。 
 「小社村ノ山界ニ当レリ此澗を御所ノ砂流シ谷ト名ク、是ヨリ峰ニ登リ尽セバ
  近江国犬上郡多賀ハ乾位ニ望ム、此頂ニ萱原アリ東ハ本州西ハ江州両国の
  界ナリ、湖水比叡山、三上山、西ニ望メリ」 

 この山は小社村の山境になる。この谷を“御所の砂流し谷”と名付けられた。谷から御所平の砦に蒔いた砂でも採取したのだろうか。これより頂上に登れば近江国犬上郡の多賀大社は西北にあたる。この頂上は萱原があり東は伊勢国、西は近江国の境になる。琵琶湖、比叡山、三上山などは西に見えるとある、三上山432mは標高が低いし手前に能登ヶ峰756mやサクラグチ926mの峯があり見えないと思ったが、直線33kmの先で立派に見えている。                          

 「又萱原二十四丁許テ谷アリ、又五六丁攀登リテ絶頂ナリ、
 舟岩と云、大谷アリ此処ニシテ近江一国過半一望ノ界ナリ、
 是ヨリ南ハ悉ク本州ノ有ナリ」
            
 御所平の萱原を300bほどいくと谷があるというが、これは
 鞍部のことだろう。一度鞍部まで下りて70bほど登り返すと頂に 
 船石という大岩がある。この岩はいまも同じ場所に厳然と鎮座して 
 いる。岩から近江国の半分が見えるとあるが、いまは樹木が繁茂
して展望は望めない。だが伊勢平野の方面は抜群の展望が開ける。船石から南はすべて伊勢国の領域というが、これも主稜はずっと南まで近江と伊勢の界になって続いているから、すべて伊勢国の領域ではない。

 「北ハ小岐須山ノの麓ニ鳩ヶ峰、向ヒヨリ石神社ノ奥山ニ連綿セリ此地ヨリ絶境
  相尽テ帰途ニ赴ク、山澗幽坂をヲ経テ小岐須村ニ至レリ」

 北は小岐須峠の麓に鳩ヶ峰、そして石神社こと石大神の
奥山に連綿と続いている。鳩ヶ峰、小岐須、石大神これら
も現状と合う。山々と深い渓谷は幽玄にしてようやく
小岐須村につくことができる。ひょっとすると安岡親毅は
自分自身、実際にこの山や谷を歩いて確認したとも思える。

 「愚按ニ北畠信意此地ニ径歴シテ隠棲人煙絶タル処ニ 
  何ノ拠アリシ、其本拠ヲ詳ニセス、天正四年滅亡ノ後、織田信意其家系ヲ継グ、
  養父タルニ拠テ家臣滝川一益ニ命シテ飯高郡大河内ニ迂シ、後ニ京都ニ帰住シ
  棲居ノ地此処ニアルコトヲ不知トイヘトモ、曾テ聞ニ随ヒ余力遠祖ナルヲ哀慕
  シテ、険難千辛万苦ヲ凌テ、此ニ至ルに及ヘリ」

安岡親毅は、北畠信意が何故こんな人煙絶えた山奥に隠棲したのだろうか、人は何の根拠があってそんなこと云うのだろうか…、その出典や根拠もはっきりしていない。伊勢国司の北畠家は滅亡したのち、養子の織田信雄(ノブカツ)がその家系を継ぎ国司となった後、家臣滝川一益に命じて飯高郡大河内城に住み、その後京都に帰っているのにと疑問を感じた。
 安岡親毅はじめこの御所平に信意の棲居があった事実を知らなかったが、伝承を知るにおよび信意が自分の遠い祖先であることを哀慕し、艱難千辛万苦を忍んでこの地にやってきたという。 
 「山中異草薬品ヲ生ス、真簇蘆陽起石等ヲ採ルトイヘトモ挙踵スルニ便ナラス、
  悉ク携ルニ難シ惜ヘシ」

 山中には珍しい山野草や薬草の類も生えている。また岩石の種類も貴重なものや珍しいものもあろようだが、とにかく山奥の地であり、運搬に困るので誰も採らない。実に惜しいものだと安岡は思った。 

       【鳩ヶ峰と国見平周辺】
 鳩ヶ峰710mは背後の野登山に隠れて存在が薄い山だが、
北麓に県の文化財に指定された石大神があり、聖なる山の
一角として捨てがたい存在の山である。勢陽五鈴遺響では 

 「北坂口上ミ野村ヨリ登ルニ、鳩ヶ峰ヲ越テ」
とあり、三国地誌は
 「上野より登れば嶮路にして鳩胸丘、山婆石等の…」
 とある。鈴鹿山系には釈迦ヶ岳への近くにハト峰があるが、いずれもその山容から出尻鳩胸が連想され、鳩胸ハトムネが鳩ヶ峰ハトガミネと音読転化したのではないか。野登山への登拝路として現鈴鹿市上野からの道は相当古いころに開通したと思われる。上野や小岐須から見たこの山は単なる前衛峰なのだが、野登山の北肩からみると堂々とした姿であり、二次林に覆われた山腹は新緑のころと紅葉のころは捨てがたい美しさを誇る。だが小岐須から見ると山腹は採石のため削りとられて無惨な姿をさらしている。
 この山への上野からの道は現在も残っているが、これを登る人が少ないこともあってほとんど廃道に近い。山頂は南峰と北峰の双耳峰だが二次林が繁茂して展望は期待できない。

 小岐須渓谷の一の谷沿い道をたどって野登山に登る人も多い。
小岐須渓谷の駐車場のすこし上流から渓谷に下り、右岸の屏風岩道と分かれ左の一の谷沿いを登る。一の谷の右岸を少しいくと美しいスリバチ滝が見える。二俣から左のマドへの道をたどる。やがて野登山北面の枝尾根に入る。ジグザグの道はゆっくり登れば疲れない。この道の一帯は以前は見事なブナの二次林だったが、20年ほど前に丸裸に伐採されてしまい、新緑や紅葉のころの美しさを偲ぶべくもない。やがて尾根の上に飛び出すとマドと呼ばれる鞍部につく。 
 ここで上野からの登山道に合流する。

 「鳩ヶ峰ヲ越テ一坂ト云処ニ姥ヶ石巨岩アリ、又ネラヒ石是モ相同シ其次ニ
  不動坂アリ険難ナリ、次ニ国見ヶ壙此処ヨリ本州一國望ヘシ」
             
 マドから野登山へは急な坂道となる。このあたりの坂を一の坂とか不動坂と呼ぶらしい。また傍らの巨岩を姥ヶ石とかネラヒ石と名を付けている。急な登りが終わると国見平である。以前ここは自然林の美しい平地だったが、あるとき地元の人がブルドーザーで大地を削って広場にしてしまった。
 せっかく建立した「国見のひろば」の石標も大雨で何回も倒れ、そのたびに立てなおしている。
 なんのためにこんな環境破壊をするのか…、唖然とするばかりである。
  この平から伊勢國の全体が見渡せると云うが、たしかに素晴らしい展望が広がっている。

     【坂本から鶏足山野登寺】

 亀山からコミュニテイバスに乗り石水渓口で下車し池山
の野登寺の下寺まで歩く。石燈籠から左へ少し登るところ、
境内には大峰山登山五十回記念とか弘法大師修行時代の
石像がある。以前は杉の木に桜の木が接木された珍木が
あったが、道路の拡幅工事で伐採されてしまった。
代々の住職は平素はこの野登寺下寺に居住し、4月7日
の五穀祭や祭祀日などに山上の野登寺上寺に登る。      
 坂本へは見事な棚田や茶畑が広がるなかの道を登る。    【野登寺下寺】
 坂本とは山坂が始まる入り口という意味。ここは昔から裕福な農家が多く、立派な石垣と門構えの家が目立つ。ここの如来寺には古い石仏群に囲まれ、弥勒菩薩の坐像が鎮座まします。 これは野登寺第45世、照空上人(竹成法印)が江戸時代(1830年頃)に彫られたと伝えられる。上人は仏の加護息災を記念して石仏の彫刻に打ち込まれたらしく、優れた石像が仙鶏の山域に多数安置されている。               
             
  「亀山府城ヨリ乾位三里半ニアリ、野ノオリ山ト称ス、
  南口ハ坂本ヨリ登山ス本通ナリ、麓ヨリ本堂観音堂
  ニ至ル一里十丁、又東口上野ヨリ坂道五十丁、
  池山村ヨリ登シ又北口小岐須村石神社ノ奥ヨリ登ル
  一里、各険阻ナリ、坂本村ヨリ二十五丁御祓川ノ
  水源ヲ渉リ十八丁坂道ヲ登ル、悉く白砂ナリ、」
 【左ののぼりみち】
 野登山は亀山城跡、若山の亀山公園などから北西の方角によく見える。表参道の坂本道そして東の上野からと北からは
石大神からの道がある。これは現在の道と同じだ。
坂本から本参道入り口には「左ののほりみち」の古い道標が
ある。ここから登ると御祓川の水源を渡るが、これも現在も
まったく同じであり、雨で沢が増水すると渡るのが困難なとき
もある。なお渡った先の岩に摩崖仏が刻まれている。地質は
風化した真っ白な花崗岩である。

 

                                         【参道の巨木】
                                
  「又七八丁許至リテ林中ヲ歴テ坂路ヲ登リ尽ス処、天照大神植玉ヘルト云俗伝
   ノ老杉樹ニ株アリ、囲六丈五尺高十丈許道路ノ傍ニアリ千枝杉ト称ス、又一株
    五丈七尺高総相同シ、石垣ノ傍ニアリ、天正兵焚ニ焼亡シテ枝葉枯構ストイ
   ヘトモ今ハ繁茂セリ、本堂ノ東四五丁ニ池沼アリ長二十間許魚亀住メリ鏡ノ池
   ト名ク、或弁天池ト称ス弁財天ヲ祀ル、」 

 天保5年のころ7、8丁も林の中を登ると、天照大神が植えられた杉の大木が2本あり、
大きい方が回り6丈5尺、高さが10丈、参道の傍らにあって千年杉と呼ぶ。高さ10丈なら30m以上もあり幹廻りは19mを越える。安岡親毅も土地の人の伝承に疑問を持ったようだ。
 仏教の伝来は日本書記説で欽明13年西暦552年とされるから、仏教伝来以後に建立の野登寺の参道に天照大神が手ずから杉を植えられるはずがない。
向学の人は歴史書など自分で調べて研究されたし、そうも勢陽五鈴遺響の中で述べている。この2本の巨杉は戦国時代に織田信長の兵火で焼かれたが、天保年間には柵で守られ緑も復活していたらしい。
 最近の調査では樹齢600年の杉が一番大きく庫裏の裏にある。幸いにもこの杉は台風で倒れなかった。残念なことにいまの参道の大杉は平成10年9月の台風で大変な被害を受け、大半が倒れてしまった。その後、倒れた大杉は伐採されて整理されたが、空や周辺が明るくなり前のような荘厳な雰囲気はなくなった。また本堂の東に鏡ノ池があって魚や亀が棲息しているとあるが、この池は弁天池とか鈴ケ池とも呼ばれた。旱魃の年には池畔で雨乞いが行われた。昭和19年に行われた記憶がある。近くのウス岩キネ岩での雨乞いは牛や馬の臓物を火に投入して神を怒らせる神道の方式だが、ここでは請雨経を読経奉納して仏の力にすがる方式だった。以前はたしかに清冽な水を湛えていたが、鈴鹿市の地元が周囲の樹木を伐採したり、NTT車道から国見平への車道を造成したため、地下の水流が変化して池に水が貯まらなくなった。そのうえ池の土手も破壊されたので、現在は乾燥して池というより獣のヌタ場になっている。
 
 「本堂ニ登ル路側右ニ石階三十間許、是ヨリ石階六十ニ級ヲ登リ右傍ニ鐘楼アリ、
  左側ニ客殿四間長九間許此処ヨリ石階三十三級ヲ登リ、五間四面本堂南面ニアリ
  大略勢陽雑記ニ所蔵ニ同シ、本堂本尊観天照大神
  御作ト云伊勢国順礼第二十ニ番
    野をのほり寺こそこれよにはとりの
         あしたの声は法のことの葉 」

 本堂に登る石段の右側に鐘楼があるが、坂本の古老
の話だと、この鐘は第二次大戦末期に兵器弾薬不足を補うため、軍隊に納付を命ぜられたが、鐘を下ろす途中でわざと谷底に落下させ供出を免れた。戦後になって谷から引き上げ元の鐘楼に戻された。
 また鐘楼の屋根は銅葺きだったが、戦後の混乱期に一夜で剥がされ盗まれてしまった。長い間杉皮葺きだったのだが、鐘楼が改築されたとき銅葺きに戻された。 天保時代には鐘楼の前左側に客殿があったというが、いまはない。
 また上寺本堂の本尊は天照大神の御作と伝えられているが、まじめに考えると時代が合わないと安岡親毅も言う。だが私は学者でも何でもない。歴史好きの素人の強みで伝承のとおり、そのまま信じることにする。御歌も平野から山に登りつくと御寺があり、三本足の神鶏が朝の鴇を告げる声は仏法の言葉と賛美する。勢陽雑記や野登寺縁起の文献からも引用している。

 「鶏足山ノ号ハ笠土ノ鶏足山ニ此シ広野を行尽シテ山上ニ至ル故ニ野登寺ト名ズク
  ト云、寺伝云人皇六十代醍醐天皇御宇延長中夢想ニ感シ住僧仙朝上人ニ勅シテ
  延喜七丁卯年ヨリ同十年庚午四月七日ニ至テ造営開堂供養アリ、故ニ今四月七日
  詣人群集ス本堂方丈庫裏護摩堂大日堂仁王門鐘楼浴室子院ハ光明院蓮光院観音院
  深海院ノ四宇アリ、寺領ハ三百貫ニシテ荘厳善美ヲ尽セリ」

 鶏足山の号名はインドの鶏足山に似ていることからという。インドにこの名の山が実在するのか知らないが、広野を行きつくして山の上に至るから野登寺と名前がある。寺の伝承では第60代醍醐天皇が夢に感じて仙朝上人に勅命され、延喜7年(907年)から同10年にかけて建設建立、4月7日に完成して造営開堂供養した。だからいま平成の年も4月7日8日は五穀祭の礼大祭が行われ、善男善女で賑わう。寺がもっとも盛んなときは、大きな堂宇が沢山立ち並び、大変な値の寺領も得ていたという。

「繁栄盛ナリシニ、六百余年ヲ経テ正親町院
天正十六壬午年三日仙朝上人二十七世ノ灘孫法印実盛住侶ノ時豊臣秀吉滝川一益ト鉾盾ノトキ伽藍尽ク焼亡シ寺領モ没収セラレ僧侶糠尽絶処ニ及テ年月ヲ経タルニ治世ニ至リテ今ノ観音堂及客殿ヲ再建セリ」


ところが戦国時代の天正16年冬に秀吉が台頭し、伊勢国司だった滝川一益は柴田勝家と組んで対抗した。秀吉はそれを知ると電光石火に五僧峠、治田峠、安楽越の3ヶ所から伊勢国へ攻め入った。

【修復後の野登寺本堂】

この兵火で野登寺は焼き尽くされてしまった。いまのように再建されたのは慶長年間に至り、第28世、盛永法印の時代からぼつぼつと始まり、元禄14年(1701)には本堂も再建され今日に至っている。

 平成10年9月の猛烈な台風はこの山に大きな被害をもたらした。
あの伊勢湾台風でも被害がなかったのに、樹齢数百年もの巨木を無残にもなぎ倒した。このとき本堂も倒木のため屋根が破壊され石燈籠も破壊された。 この石燈籠には私個人の思い出がある。本堂前に2基の石燈籠があるが、これも台風の倒木で1基が破壊された。 この右の石燈籠につぎの銘がある。

    天保三壬辰年三月 尾州海西郡大宝新田 長尾治右衛門重教

燈籠の寄進者、長尾治右衛門重教(シゲノリ)は、いまの愛知県海部郡飛島村大宝の人、ご子孫は大宝姓を名乗る。
 長尾家は3代目の長尾治右衛門重幸が尾張藩の許可を得
て伊勢湾の干拓にとりくんだ。当時の飛島村大宝新田一帯は遠浅の海と一面の芦原が生える州であり、その中に飛島という小島があるだけだった。
 元禄6年(1693年)長尾重幸はまず干拓工事に着工した。
汐を締め切る堤防を建設し、つぎに水路を掘り道路を設け橋を架けるという大工事である。はじめは親族や豪農仲間4人で着工したのだが、のちにすべて重幸に開墾事業のすべてを譲渡した。それを長尾家は巨額な自己負担金を苦労して調達し、ほとんど独力で成功させた。                                                                              【台風で破壊された石燈籠】

 この大宝新田は延べ16ヘクタールにも達する広大なもの。いまも豊か
な田園が名古屋の近郊に広がる。尾張藩はこの功績を讃え名字帯刀を許し、総庄屋などいくつかの公職も与えた。
 石燈篭を寄進した第7代、長尾治右衛門重教は天明2年(1782)
生まれ、幼少より頭脳明晰であり農学、医学、儒学の造詣が深い。
また俳句、和歌にも親しむ教養人でもあった。
 彼の唯一の気がかりは息子、重喬(シゲタカ)が人一倍虚弱な体質
だったことである。彼は息子を連れて湯ノ山温泉に治癒に出かけたり、各地の寺社に祈願にしたりしていた。 天保年間に入ると、11才の重喬を連れ鶏足山野登寺にも参詣にくる。
 親子はこの山の千古斧を知らぬ霊気に触れ、体力ずくりに叶っていたらしい。このころの住職はあの照空上人である。この傑僧から法の教えを受けたりするうち、身分や立場を超えて互いに尊敬しあう間柄になっていく。息子の健康がまったく回復した年、天保3年(1832年)に2基の石燈篭と寄進したのであった。
 それが平成10年9月の7号台風で破壊されたのだが、地元の友人の話では熱心な方々の熱意が見事に実り、平成16年4月7日の本堂修復の落慶法要の際に、この燈篭も見事に修復されたと聞く。 

 「延喜十四年申戌の夏大いに旱して万民困窮に及べリ。人家の井水も悉く尽きて
  渇を湿らすに足らず。苗枯れたればみるべき秋を待つに由なし。闇里の黍民ら
  鶏足に登り、仙朝上人に雨を降らせた祈り玉へと請朝、」 (野登寺縁起)

 延喜14年の夏は大旱魃だった。里人の井戸の水も涸れ咽喉を潤すこともできない。田圃に苗を植えても秋の実りも期待できない。困り果てた人々は野登山に登り仙朝上人に雨乞い祈願をと願った。これに応えて上人は精進潔斎して経を唱えて17日もの間請雨した。その暁ごろ一人の白髪の老人が現れて曰く
 「堂の東北に当て一壷を置く其壷中に水あらん汝杓持往て水を汲して壷のほとりに
  酒くべし」 (野登寺縁起)
                





 
      【雨壷】
 野登寺縁起には、仙朝上人は、
これはひとえに千手観音の慈教と
有難く思いその場所に行ってみる
と、はたして壷があって水が
8分目ほど入っている。老翁の教
えたとおりにすると青天にわかに
掻き曇り、白日忽然として霧が覆
い雷鳴が轟き、お盆をひっくり返
すような土砂降りになった。    
 上人はそのあと大地に穴を掘り
壷を埋め、板で壷の口を覆い石を
その上に置いた。そしてこれは天
からの賜物して天壷と名をつけた。
 いまにいたるまで雨乞いを祈るたび仙朝上人の例にしたがえば、どんな旱魃の年でも雨が降ったとある。
 いま雨壷は本堂の右奥に屋根で守られ存在する。壷はないが石積みのしっかりした井戸である。ここから湧き出た水は本堂の裏を回り、左下の筧水を落とし庭を横切って小さな流れとなる。この水を三重県衛生試験所で検査したところ、カナダや北欧の清水、名水といわれる水準を越えた水質だったらしい。
 この雨壷の水の下流に数枚の石板の橋が架けられている。なんのへんてつもない石橋だが、これが日本に二つしかない貴重な民俗資料である。三重大学の杉本一教授が昭和47年に研究発表されたものによると、これは「石橋供養」と言って、昔生活のために止むを得ず口減らし、人工流産や堕胎などで生を受けることのなかった童子供養のため、2体の小さな仏像をこの橋の下に彫っているとのこと。石橋を覗き込むと、ぼんやりそれらしい姿が見える。同じものは秩父の金昌寺にあるだけだ。     
 野登寺からすぐ裏の山腹を登るとNTT電波塔 
 への車道にでる。最高点は873mもあるが、
 NTTの敷地内なので入れない。フェンスの外 
 にその代用地がある。引き返して車道を下りて 
 いくと途中チェーンで車止めされているがその 
 理由は不明、この道をたどっていくと途中で
 三角点への道が別れる。
 それをたどると路傍に役行者の石像があり、 
 その前を少し入ると852mの三角点、ほとん 
 ど展望がきかない場所なにどうして三角点
 があるのか…、不思議である。
 【童子供養の石橋】                 三角点を過ぎてすぐ先に国見石がある。

        鶏足山
  山模藪天竺壇林   寺拠仙朝草創成 
  国見石高猶記景   千枝杉朽只伝名
     (亀山地方郷土史)
 
 野登寺一帯を詠んだ漢詩だがちゃんと国見石
がうたわれている。超古代史研究家は磐座だと
主張する。農耕が始まった時代にこの石から
太陽の運行を見て暦にしたというのだ。石の
割れ目は夏至のとき太陽の登る方角に合致するという。
 またヒエログリフ文字が刻まれているとも言うが、よく調べてみてもそれらしいものはない。昭和の初めに刻まれた津一中とかの文字が読めるだけである。 

 この石の周辺一帯の二次林や笹を地元の鈴鹿市の人々が根こそぎ伐採したが、自然の力はものすごい。 歳月の経過とともに緑はほとんど戻ってきている。



  三門の近くや南斜面山腹には立派なモミの大木
が多い。これは昭和49年に亀山市の「市の木」に
指定されている。(注:現在は杉)
また蛇谷の一帯は原生林や野生の桃の木があり、県が昭和31年に天然記念物に指定したはずだが、いくら探してもそれらしき原生樹林や桃の木は見当たらない。ひところ鈴鹿市の地元の人たちが、蛇谷や野登山の北面で自然林を根こそぎ伐採をしているのを目撃したことがあるので、その犠牲になったのかも知れない。

   
                                         【(元)亀山市木の樅】
 「一山の眺望他に異也、ふもとの亀山の城郭を見るかぎり、伊勢国の村々はまの
  あたりにいとあざやか也、海よりむかひは尾張、三河より続きたる国々の山々、
  目の及ぶ程見え渡り、よくはれたるときは富士山も見ゆる也」(勢陽雑記)
 この山からの眺望はまったく素晴らしく、晴れた日は富士山も見えると言うが、いまはスモッグで見えるかどうか。
 「西は鈴鹿山につづき近江甲賀のあぶら火が嶽など言ふ山も見えたり。北は鎌カ嶽、
  国見カ嶽よりつづきて伊吹山、多度山より美濃の国の山々、信濃の駒嶽も見え
  侍り」(勢陽雑記)

 鈴鹿山は鈴鹿峠のこと、油日岳や鎌ケ岳、御在所岳、伊吹山、多度山、木曾駒ケ岳も見える。野登山は一箇所からこれだけの眺望が得られるのでなく、広い山頂一帯をあちこち移動して眺めると、沢山の山々が見られる。

 
その2 仙ヶ岳の周辺へ

 

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