東海道の昔の話(49)
明和五年の農民一揆4   愛知厚顔    2003/11/28 投稿
   
【一揆 三日目】
 明和五年〔1768〕九月十五日
 亀山城主後見、石川総徳は家老の石川伊織の
  『一揆を殲滅作戦することに絶対反対です』
の進言をよく聞き、彼のこの案を採用することにした。そこで農民に人気のある平岩安太夫と石川伊織の両名を代理とし、大目付の近藤伊太夫、馬場彦太夫を随行させて郷目付の野口郡八、太田喜兵治を案内人として一揆の頭取、真弓長右衛門に面会し、彼らの願いを聞き取るようにした。 野口と太田たちは、一揆の駐屯している鈴鹿川筋の阿野田碩(JR鉄橋あたり)に行く途中、小田村の庄屋善左衛門に遭遇したので、
  『ちょうどよい、先導してくれないか』
と頼んだが、善左衛門は
  『こんな危険な用事は御免こうむる』
両人は
  『万一のときは鉄砲組百五十人ほどを陰涼山の陰に
   伏せてある。このことは誰も知らない。もし異変
   が起きたときは鉄砲を撃つって、我々を保護して
   くれるので安心せられよ』
善左衛門
  『それは二階から目薬というもの。我々が一揆に殺さ
   れてから発砲するのが関の山だ。死ぬのは御免だ。』
  『ここまで打ち明けて依頼しているのに、断るのは重罪人
   である。大目付に引渡して牢屋にぶち込むぞ!』
  『もはや止むを得ない。同行するが、もし危険なときは
   御両人を捨てて真っ先に逃げるが、恨まないでほしい。』
と言って先導を承知した。

 一揆の連中は前日の夕方には阿野田碩に集まり、指物や旗を立てて勢力を近村に誇示した。そして阿野田、菅内(亀山市)などの村村に出向いて強制的に物資を徴収し、これに応じないと家屋を破壊したり放火したりして脅した。
 そして亀山東町の亀田十郎兵衛方から徴発した白米五十俵を碩に運搬し、河原に炊事場を仮設して阿野田の村民を使用して炊事に従事させた。
 十五日の朝はまず阿野田村の庄屋、豊田義右衛門を破壊する計画を練っていた。

 同じ朝、家老の石川伊織、平岩安太夫、馬場彦太夫、近藤伊太夫はじめ総数百十六人、若党三十一人が人形坂に配置についた。
また鉄砲隊百五十人を陰涼寺山の陰に伏せさせた。
 一揆がまだ活動を開始しない朝、徒目付、嶋村享蔵、前川茂十郎、野口郡八、太田喜平治、藤原丹右衛門ら五人は、小田村庄屋の善左衛門に先導させて城主の後見、石川総徳の手紙二通を青竹に挟み、阿野田碩にむかった。
 一揆の見張り番はこれを発見、棍棒で打ちかかってきたが、五人はこれを諭し
  『責任者はおらぬか?殿から直々の御書状を持参
   しておる。どうか受けとってほしい』
現れた一揆の頭取に石川総徳の手紙を渡した。頭取は頭を垂れてこれを拝載し、
  『皆の者、殿の御手紙である。失礼のないように…』
というと、衆のものたちは地に土下座し最敬礼を行ったのである。
この当時の農民は無秩序、無知のようであるが、このような美徳も自然に身につけていた。大目付はまた碩にきて一揆の頭取三名を招き
  『願いの筋があれば家老石川伊織様、平岩様が
   人形坂に出張しておられるのでお取次ぎするが…』
と言うと、彼らは
  『大目付様から進達してもらえるなら差し出します』
そこで大目付の二人は人形坂に戻り家老に復命した。それを聞くと二人の家老は直ちに碩まで馬を飛ばしてやってきた。
  『願い書があれば受け取ろう』

 このとき鉄砲隊の隊長物頭役の三人は、そっと陰涼寺山にきて鉄砲隊に射撃の用意を命じた。
 一揆の頭取は家老の言葉に応じ、各村の頭八十三人が横一列になって全進し、願書を提出した。家老はうやうやしくこれを受け取り床机にもたれた。そして一揆の頭取、小岐須村の嘉兵衛、辺法寺村の喜八が願書の内容を説明した。
  「恐れながら願い奉り候。
   一、猪野三郎左衛門殿 退役
   二、大庄屋は全員    退役
   三、その他の庄屋    退役
   四、年貢、地租の減免
     子九月    御領分村村の惣百姓共
    御上上様               」

これを見て、石川、平岩の家老は
  『願いの主旨はもっともだが、殿や重役と協議の上で
   決められることなので、持ち帰って相談する』
一揆は
  『願書を提出したので〔聞き届ける〕とのお墨付き
   を頂けませんか。これが無理なら我々はまた勝手
   な行動をとることになります。』
と言って、農民一同は喧喧諤諤として反抗の様子を示し、石礫を手にして投石をする様子をみせた。もはやこれまでか…、藩士たちは刀に手をかけて
  『どうしても聞き分けて貰えぬか!』
と大声で叫んだ。その声が陰涼寺山に伝わったらしく、鉄砲隊が山を下って鈴鹿川の北岸の堤防上に整列し、命令一下火蓋を切るべく銃を構えた。
 そのうえ更に人形坂から廿人の鉄砲隊が坂をくだってやってきた。
この様子をみて一揆の衆は河原の砂の上に座り込み、おとなしくなってしまった。
 それをみて大目付馬場彦太夫、近藤伊太夫が受取書を一揆側に交付した。
  「願書は必ず組頭中へ相達するのでその旨承知すべし
    九月十五日   大目付共
    御領分惣百姓共江       」  

 この一揆の頭取の喜八、嘉兵衛が意外に強硬で屈服しなかったのは、すでに死罪を覚悟していたためだといわれる。
このとき案内役にさせられた小田村庄屋善左衛門は、一揆が鎮圧された後に、自分の言葉で書き残している。
  『あのとき私は仕方なしに阿野田碩に行きましたが、
   御上の御書付を一揆に渡したるとき、三千余人が一度に
   土下座をしたるときは、御殿様同様の礼式を受けたるよう
   なる、心持ちが致しましたが、御墨付の一段に立ち至り、
   三千余人総立ちとなり騒々しかりしとき、陰涼寺山より
   鉄砲組百五十人ばかり、えいえいえいと掛け声をしながら
   降りられたるときは、驚きのあまり、逃げ出さんとした
   けれども、歩むことも難しくござりました。
   早腰が抜けたと言うは、この事じゃと思います。しかし
   ながら三千余人の農民に、土下座をさせると言うことは、
   私どもらの家にては、孫子の代まであることでは御座り
   ませぬ。私は他人の知らぬ、恐ろしき目や、よき気持ち
   の事に逢いました。
   いま当時の二人のお役方様にお目にかかりますと、
   御恥ずかしくなります。』

 家老や藩士らはようやく一揆の難を遁れ、亀山城に戻ることができた。鉄砲隊の威嚇が思った以上に効果があったのか、あるいは願い書を藩の重役に受けとってもらった為か、一揆は正午ごろから一村ごとに隊伍を編成し頭分に引率されて村名を記した旗を持ち、鈴鹿川から離れていった。
 どうやら彼らは矢下坂を登って広瀬野へ戻るらしい。

 亀山藩領で農民の動乱が起きたという噂はすぐ近隣に伝わった。
津藩城主、藤堂和泉守をはじめ久居城主の藤堂佐渡守、桑名城主の松平下総守、神戸城主本多駒之助、菰野藩主土方清之助などは、すぐに急使を発して
  『鎮定のためには助力を惜しみません』
と申し入れた。しかし亀山藩では
  ”近隣の兵力を借りて鎮圧したとあっては、我が藩の
   名誉を毀損するばかりでなく、藩に力が無いことを
   意味することになる…”
  『せっかくのご好意なれど、お手前の藩にご迷惑は
   かけられません。我が藩だけで充分に対処できます』
せっかくの申し出を丁重に断って帰藩させた。
このとき菰野藩の使者は
  『我が菰野藩領の浮浪者が貴藩の一揆に参加していると
   聞いています。ならば菰野藩としての責任もあり、我が藩
   は兵を出してこの一揆を討伐せざるを得ません。
   これは亀山藩からの援軍に応じるのではなく、あくまで
   菰野藩だけの判断で兵を出すのですから、決して貴藩の
   名誉を毀損しません。』
と言い残して帰ったという。

 また神戸城主の本多駒之助の家臣、畠山所左衛門という人は、亀山藩の寺社奉行、伴安兵衛と親戚関係にあった。彼は私信を発してひそかに
  『亀山藩の一揆討伐の方針は本当のところどうなのだ?』
と問い合わせた。これは神戸領内に一揆の波及を恐れたためである。
畠山は再三にわたり私使を出し
  『もし一揆が神戸領に侵入したときは、武力で鎮圧
   するつもりだが、亀山藩に異論はないか?』
と聞いている。これは近隣の藩が動乱の波及を恐れ、警戒を怠らなかった証拠でもあり、間接的に亀山藩に援助を打診したのであった。
亀山の町に掲げられていた落首がある。
 これは八野村(鈴鹿市)の大庄屋の伊東才兵衛を揶揄したもの

     時なれや八野の露雨けさ吹く風に紅葉散りけり
     故郷をすてて八野の名主して
            才兵衛過ぎて恥のかきあさ
     錆刀尻から蜂の才兵衛が
            我が身の針と知らぬ間竿
     蜂の尾や我れ針ゆえに憎まれて
            人の軒まで巣をかけにけり
     五萬石寄せて投げたる才兵衛も
            悪い目が出て身代のみて

 羽若村の大庄屋、服部太郎右衛門を揶揄したもの

     常磐木の羽若の森の浮時雨
            木の葉のこらず今日の秋風
     穴のはし覗いて見出す太郎右衛門
            地獄の種の荒れは何ほど 
 豪商、鮫屋源兵衛への揶揄
     五万石呑み込むほどの鮫なれど
            雑魚に負われて骨と皮ばか
     源兵衛は一から六まで張りつめて
            とりくら殻で七ぞ出にける
     鰐鮫の呑みたる者を吐かすれば
            町や家中のみんな中綿
     船頭も呑み込むほどの鮫なれど
            雑魚の思いで道に滅ふる
 大庄屋宿の扇屋宗兵衛への揶揄
     扇屋の要の会所破られて
            地紙はがれて骨はばらばら

 広瀬野の松の枝に下げられていた落首
     武蔵野にあらで広瀬の月見して
            狭き心の広野なりけり
     今宵夜は広瀬の野辺を家桜
            花無き秋に旅寝せんとは
     広瀬野に露を片敷き草枕
            思いを晴らす赤月の鐘

     初雁や広瀬の野辺に咲きにけり
     名月やここもかしこも草枕
     月の野に五千余人の草枕
     夕鴉高く飛びけり天狗塚
     蓑笠の夕日に白し天狗塚

 一揆の総大将、真弓長右衛門の志は天に通じないのか、九月十五日の夜、午後十時ごろから強い雨がしきりに降ってきた。
広い野原に集合していた一揆の衆は、かがり火を焚くこともできず、その寒さは身に染み渡った。そこで近傍の村落に入って雨やどりをした。
 しかしこの混乱に乗じ、老人や虚弱な青年の過半は脱走してしまった。

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