東海道の昔の話(48)
明和五年の農民一揆3   愛知厚顔    2003/11/28 投稿
 
【一揆 二日目】
 明和五年〔1768〕九月十四日.黎明、一揆の連中は川合村(亀山市)の北端に到着し、庄屋の八左衛門を脅かし
  『飯を焚け』
村内の婦女子を動員して粥を炊かせた。それを食べている間に後続隊は西富田村(鈴鹿市)の庄屋孫四郎宅を襲撃、彼が所有している水車を破壊し米穀を奪った。
 そしてここでも飯を炊いて食べている。破壊した孫四郎の水車場に一揆が貼り付けた罪状はつぎのとおり、
  「昨十三日、八十三ケ村が広瀬野に集まった我らの行動を、
   野村大庄屋へ倅の輿惣兵衛を走らせ、知らせたのは
   言語道断。よって八十三ケ村が推参し罰を執行した。
    九月十四日   広瀬野源太夫旗下五千六百人
    西富田村庄屋 孫四郎殿」
そして
    訴訟してまだご褒美の無いさきに
           報いの廻りはやき車屋
と落書きをした。訴訟とは野村大庄屋へ息子の輿惣兵衛が知らせたことを言っている。

 やがて前哨隊と後続隊は合流し、八野村(鈴鹿市)の伊東才兵衛宅に迫った。そして家屋を破壊したうえ家財を預かっていた市郎右衛門を脅し、その家財を屋外に撒き散らし粉砕してしまった。才兵衛の門前で一揆の読み上げた罪状は
  「貴殿、二十年前は平野村で山廻りだった。それが
   この八野村で新田開発の庄屋となり、そのうえ帯刀
   まで許された。これは過分な恩賞であるのに、
   このたびは羽若村目付と相談し、太閤秀吉の検地
   でも課税免除になっている荒地に査定検地をさせた。
   これで領内の農民は難儀迷惑をしている。
   なのに貴殿らは褒美に喜び遊興をしている。
    ここに罰として家と家財を破壊する。
   九月十四日  広瀬野源太夫旗下五千六百人
                            八野村庄屋 伊東才兵衛殿 」

 一揆は八野村で再び分かれ二隊になった。一隊は井尻碩に出て進んでいく。そして和田村(亀山市)庄屋の喜兵衛の家に到着し
  『酒を出せ!』
と脅して出された酒を痛飲した。そして勢いをつけると亀山茶屋町に出て、庄屋宿の井尻屋平八方を破壊した。また道具を持った特別破壊隊は、茶屋町北方各家の裏表にある板塀などを破壊していった。
彼らが残した書状には
  「貴殿はこの五年間に酒倉や本宅を新築修繕し、
   二十二両余ほど費用をかけてるので、その分だけ
   許してやる」
など、少し手心を加えて家財を破壊している。

 このころ奉行の生田弥兵衛と香取半右衛門、伴安兵衛、代官の大辻又七郎、小泉利太郎などが、同心および足軽を百余人を率いて猿屋のそばで一揆の説得に当たったが、数に圧倒されて敗走した。
 そして南の三本松から井尻村に至る街道から伏兵を出し、一揆の頭目を逮捕する作戦に出た。
 しかし一揆のほうはこれを察知し、藩士の一隊を見付けると北側の各家の隙間から、北の方に抜け出て羽若村(亀山市)に逃走してしまった。羽若村の庄屋、服部太郎右衛門は一揆の襲来を察知すると、さっさと逃亡して行方が判らなくなった。そこで一揆側は特別破壊隊でもって、服部の邸宅を散々に打ち壊していった。一揆の言い分は
  「貴殿は年も六十を越えて退役するべきなのに、ほかの
   大庄屋たちと結託して褒美目当ての検地をさせた。
   その罪は許し難し」

 つぎに一揆は亀山西町の豪商、鮫屋源兵衛宅にむかった。
源兵衛は一揆が迫っているとの知らせがあったとき、すぐに店舗を閉鎖し門を閉めて青竹矢莱を結んだ。そして近所の人々に
  『今回、米穀買い占めの罪によって藩主から処分を受けた』
と触れ回ってから逃げたのである。隣近所の人たちはこれを信じた。
一揆もこれ信じて鮫屋宅を破壊するのを中止した。
 源兵衛はそのすき間に倉庫を開き、多額の金貨を担ぎだし、山林の間道から津に逃げていった。その途中でもわざと
  『北は桑名、菰野はもとより亀山藩領八十三ケ村の
   全部の農民が一揆に加わっている。これでは桑名、
   菰野、亀山、神戸の各藩の兵力では鎮圧は無理だろう。
   米穀商人の倉庫はすべて一揆に占領されてしまった。
   まもなく津藩領も危ないだろう』
流言を流している。これを聞いた津藩領の米穀商人たち、
  『急いで米を売って逃げる準備をせねば』

 驚いて米穀を投売りしたので米価は下落していった。
すると源兵衛は手代に指図して現金にて米穀を廉価で購入し、それを松阪の米取引所まで運んで成り行きを見ていた。
 源兵衛の放った流言によって米価格が暴落したのに驚き、津藩の藤堂和泉守、久居藩主の藤堂佐渡守は急いで亀山藩に使者を派遣した。
 これらの使者が亀山に到着した事実は間接的に一揆を威嚇した。
 その後、一揆が鎮定したのち米価格が復旧したのをみると、源兵衛は持っていた米を売却し金貨六千両を儲けたという。彼が逃げ出すとき持参したのが三千両だから、一揆で倍額の利益を得たことになる。
この騒動の発端から終焉まで、鮫屋源兵衛の演じた役割は驚くばかりである。

 一揆は羽若村鷺ノ森および亀田野(NTT無線跡地付近)で休憩し隊伍を整えた。そして亀山城下に進んでいった。亀山萬町の白子屋甚八は
  『どうぞこれでお許しを』
と酒廿樽を出して家の破壊を免れた。それを聞いた横町の山形屋伊兵衛は十五樽、東町の伊右衛門は十樽。おなじ東町の某商店も十樽を一揆に提供して難を免れたという。
 このほか東町の魚屋徳左衛門、酒屋の七郎兵衛、魚屋伊三郎も酒を贈り、菓子屋、タバコ屋など十数軒も店舗の商品をすべて一揆に提供し、難を遁れたそうである。
 一揆の連中は頭取の命令で統制のとれら行動をしていたのだが、他領の農民や無頼漢が一揆に混入して乱暴を働き、商店を脅して城下の物資をほとんど空にさせたとある。このときの様子を記録は
  ”火を出せ、茶を出せ、酒を出せ、出さぬと庭の蘇鉄も
   牛蒡抜きにするぞ!とわめく声。山谷にひびき、
   天地もくつがえるかと、おびただし。
   城下の人々色を失いて云々…”


 亀山城主の石川総純の後見人、石川総徳は一揆が迫っているとの情報により、亀山城の諸門を守る手配をした。
大手門先手は榊原権八郎ほか二人の重役が指揮する藩士、大手門後詰は弓組、鉄砲組など。大手門守備の奥詰には西村隆八(33才)がいた。
彼は道雪流弓術の達人、去る宝暦五年江戸深川八幡の千射奉納では、優勝して金廿両の褒美を貰っている。一揆に対して臨時の弓組隊長である。家老の石川伊織は西村隆八と江ケ室門外守備の生田理左衛門に対し
  『故なく農民を殺傷すること無かれ』
と戒めたところ、二人は
  『私に反抗する農民は一人もいませんよ』
と絶対の自信で断言し、弓と矢を持たずに守備についた。
この二人は日ごろから親しく農民に接し、彼らを理解していた。
 その言葉のとおり、一揆の連中が西村隆八の前を通過するとき、被っていた笠を外し、前身を屈して敬礼を行ったという。
 また羽若村から江ケ室門前を通過した一揆の一隊も、生田理左衛門の姿を見ると深深と敬礼を行ったそうである。

青木門と黒門は佐藤喜右衛門ほか二人が指揮する鉄砲、弓組の若干人。
町方火之用心の取締りは町奉行の香取半右衛門ほか。江戸口門は足軽三十人。東町は庄屋大庄屋若干。若山口は物頭と足軽十人余などである。
 一揆は羽若村と亀田野で他領民と亀山領民と判別し、他からの浮浪者や乱暴者で命令を守らない者は、きびしくし場合によっては死罪に処すことにした。これ以降は一揆も比較的統制が守られたようである。
 この日、横町の大庄屋宿の扇屋宗兵衛は米三十俵を差し出し、本屋だけは破壊を勘弁してもらっている。東町の米問屋亀田十郎兵衛は白米五十俵と酒若干を提供して難を免れている。一揆はさらに過料の名目で破壊しようとしたが、略奪だけに終った。扇屋への一揆の言い分は
  「貴殿は大庄屋の推薦で立身したが、これは農民困民の
   涙のせいである。その罪を償うため焚き出しを申し
   付けるものである。神妙に従う姿勢なので罪一等を許し、
   会所だけの打ち壊しとし本屋は許すことにする。
    扇屋宗兵衛殿            郷民等   」

 この九月十四日の一揆は亀山城下だけで三十五石の米を略奪した。
一人一日に一升を消費するとすれば三千五百人。一人が一日に八合を食するならば四千三、四百人分に当たる計算である。これをみると亀山城下町に侵入した一揆の総数は、三千五百人以上から四千四五百人以下であろう。
 この一揆の記録などでは八野村から羽若村に向かった人数は一万人とあるが、これは誇大な数字と思われる。
                     
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