東海道の昔の話(52)
  幕末天狗党の悲劇2  愛知厚顔    2003/12/4 投稿
   
 天狗党の千余名が準備を整え常陸北部の大子村を出発したのは元治元年(1864)十一月一日の午前二時ごろだった。 
 総大将には武田耕雲斎が選ばれた。そして翌日には早くも隣の黒羽藩相手の戦となる。彼らは戦力の消耗を避けるため、できるだけ合戦をせず京都にたどりつきたいと願っていた。
だから前もって通過する藩に
  『我らはただ通行したいだけである』
旨の書状を通知していた。この藩との初期の戦で数人の戦死者をだしたが、まもなく黒羽藩から
  『城下を避けて間道を通行するなら
   目をつぶる』
と申し入れがあり合議が成立した。天狗党の討ちとりは幕府からも諸藩に強い命令が出ており、それを実行すれば相当な犠牲を強いられる。しかも三百年も合戦なんか経験していない。大砲や小銃で武装した歴戦の天狗党に勝てる見込みはなかった。
 この黒羽藩の処置が一つの手本になってしまった。

 天狗党は下野国の大田原藩領では藩役人の案内で間道を通過した。さらに宇都宮藩領をに入った。このときも近くの日光奉行は二百両を提供し、
  『どうか日光には入らないでください』
と懇願している。さらに太田宿(群馬県)を経て本庄(埼玉県)吉井町(群馬県)と進む。ここでも案内に藩の役人が協力した。天狗党が行く先での藩は、ほとんど戦を回避しようとした。しかし高崎藩領の下仁田では激しい合戦に
なり、高崎側は戦死者三十六名、斬首切腹が十名の犠牲を出し、天狗側は四名だけという大勝利に終った。
 やがて天狗党は荒船山の峠を過ぎて信州に入る。
 筑波山挙兵の初期に一部の超過激が住民を虐殺したり、軍資金を強奪して民心が離脱したことを反省し、いまの天狗党の軍紀は非常に厳正に守られていた。村で食料を調達しても民家で泊まっても代金を支払う。彼らの評判は悪くなかった。

 そして通過する村の豪農豪商から二百両、三百両と軍資金が提供される。つぎに合戦があったのは信州の佐久と諏訪の分水嶺、和田峠である。そこに松本藩兵と高島藩兵が陣を敷いて待っていた。天狗党との間で鉄砲、大砲の激しい射撃から始まった。はじめは地元勢が優勢だったが、結局は天狗党が勝利した。地元藩の犠牲者は十八名、大砲五門が天狗側に鹵獲された。
 このあと天狗党は伊那の高遠、飯田を経て清内路峠を越え木曾に入る。幕府は西洋式の訓練と装備を誇る部隊にずっと追尾させていたが、彼らは天狗党に付かず離れずの、あいまいな作戦行動をとっていた。天狗党はいずれの町や村、小藩からも軍資金を提供され道案内を受けた。妻籠、馬籠からは美濃国である。そして中津川からは尾張藩領となる。さらに瑞浪、恵那をすぎて太田宿(美濃加茂市)加納宿(岐阜市)と進んだ。

  『高崎と和田峠で勝利した歴戦の天狗勢、
   千余人もが我が藩領に近ずいている。』
驚いたのは行く手にある大垣藩と彦根藩、そして伊勢の桑名藩である。そこで三藩は協力して長良川の岸に強力な陣を布陣し、天狗党がくるのを待ち構えた。鵜沼宿(各務原)の天狗本陣では、武田耕雲斎を中心に軍義がひらかれた。
どうしても犠牲は最小限にしなければならぬ。
  『三藩との戦は避け、間道を越前に抜ける』
武田は決断した。越前にむかう道は揖斐川支流根尾川に沿って谷汲村、能郷村とあるが、険しい断崖絶壁の道であり、その先は奥美濃の深い山並みが聳える。そこでは標高千bの蝿帽子峠を越えねばならぬ。ときは豪雪の厳冬期、容易な行手ではない。

 十二月三日、天狗勢はいよいよ険しい山道に入る。
途中には谷底まで断崖のクラミの大難所がある。予想どおり弾薬を積んだ馬が転落した。彼らは負担を減らすため不要な荷を谷に遺棄した。その夜は美濃最奥の大河原村で宿泊した。
この夜、武田、藤田ら幹部は軍議を行った。そしてつき添ってきた女子供、老人、病人の多くを解放、元気な者だけで峠を越えることが決められた。
 その席に亀山脱藩の小林平太郎が呼ばれた。耕雲斎の像
  『君には今日まで行動を一緒にしてもらい
   感謝している。我らは明日は越前に入るが、
   君にはこれ以上の迷惑をかけられない』
驚いた平太郎は
  『それでは今日までの苦労が無駄になります。
   どうか一緒に連れていってください』
と涙を流して訴えたが
  『いやいや君には別の用事がある。この書
   を大垣藩に届けてもらいたい。これは京
   の慶喜公に届くはずである。この役は君
   しか頼めない。ぜひ引きうけてほしい』
そしてさらに
  『届けたあとは君の判断で行動しなさい』
と言い渡されたのである。命令とあれば仕方がない。
小林平太郎はこの半年の間、ともに生死の境をくぐりぬけた同志たちに見送られ、彼らと逆の方向の昨日きた道をたどったのである。
 彼は揖斐宿まで歩いたのち旗本陣屋に入った。
そこで代官の松本亀右衛門に面会し経緯を説明した。そして棚橋衝平という侍士に案内され、三藩連合の作戦本部に連行された。そこで大垣藩の家老、戸田金之丞に武田から托された書類を提出した。そして彼は身柄をそのまま拘束されてしまった。
 小林平太郎が自由の身となるのは、天狗党が悲惨な末路をたどった後であった。

 豪雪に覆われた険しい奥美濃の山々、その蝿帽子峠は標高1037メートルを越える。平成の現在は峠越えの道はいつか廃道化し、人影を見ることがない。むかしから美濃の村人は
  『冬は絶対に越えることはできない』
教えられてきた難所である。そこえ荷をつけた馬や重い大砲をひいて歩く。容赦ない猛吹雪の襲来と厳しい寒さ深い雪は人々の体力を奪ってゆく。この悲惨な行軍を島崎藤村は名作〔夜明け前〕で描写している。
 「美濃から越前へ越えるいくつかの難場のうち、
  最も浪士一行の困難を極めたのは国境の
  蝿帽子峠へ懸った時であったといふ。毎日雪
  は降り続き、馬もそこで多分に捨て置いた。
  荷物は浪士等各自に背負ひ、降蔵も鉄砲の玉
  の入った葛籠を負わせられたが、まことに重荷
  で難渋した。極々の難所で、木の枝に取りつい
  たり、岩の間をつたったりして、漸く峠を越え
  ることが出来た。」 

 このようにして一行は奇跡的に峠を越えることができた。
だがやっとたどりついた越前側の山村は、戦略的な見地からことごとく焼き払われ、村人の姿もまったく無い有様だった。
疲労と寒さと戦いながら食料と火の暖をと、期待したものがまったく失せてしまった。
 島崎藤村の〔夜明け前〕は記す
  「その辺の五ケ村は焼き払はれていて、人家も
   ない。よんどころもなく野陣を張って焼跡で
   一夜を明した。兵糧は不足する。雪中の寒気は
   堪へがたい。降蔵と同行した人足も多くそこで
   果てた。それからも雪は毎日降り続き、峠は
   幾重にもかさなっていて、前後の日数も覚えな
   いくらいにようやく北国街道の今庄宿で辿りつ
   いてみると、町家は残らず土蔵へ目塗りがして
   あり、人一人も残らず逃げ去っていた。」
 猛吹雪の中を進んだどの村も焼かれていた。一方、このころには合計一万数千人ともいわれる諸藩の連合軍が迫っていた。

 天狗党がやっと新保村(敦賀市)という小さな村に到着したころは、一行はもう完全に周囲を包囲されてしまっていた。
しかも、こともあろうに天狗党が西を目指した相手、一橋慶喜その人がその追討軍の最高指揮官である。愕然とて気落ちした天狗党は、ついに先に進むことをあきらめる。
新保村の近くに陣を張っていた加賀藩に投降したのだった。
彼らが常陸を出てから五十日余、長い旅の終りであった。
 降伏した天狗党の一行は、まず敦賀の寺に分散収容された。
その後は肥料用のニシン保管倉に移された。火の気もまったくなく布団もろくにない。うす暗い倉の中での厳しい寒さと粗末な食事、これが原因で廿数人が生命を失った。

 彼らの取り調べと処置は天狗側が期待した一橋慶喜ではなく、幕府の若年寄の田沼玄蕃頭意尊であった。彼は名高い田沼意次の子孫にあたる。田沼の取り調べは予想どおり厳しいものになった。彼は始めから
  『なんとしても厳罰にする』
という姿勢だった。そして元治二年二月十五日に全員の処分が執行された。裁きの翌日から斬首を始めるという無慈悲さであった。それは武田、藤田ら幹部をはじめ、平隊員にいたるまで死罪三百五十二人、島流し百三十七人、水戸藩渡しが百三十人というもの。あの悪名高い安政の大獄でも死罪はわずか八人だけであるのに…。
 この神をも恐れぬ大量処刑に驚いた薩摩の大久保利通は日記に
  「このむごい行為は、幕府が近く滅亡
   することを自ら示したものである」
と記している。

 天狗党が常陸を出発して西に向かったあと、水戸藩の実権は市川三左衛門らの保守門閥派が握った。武田耕雲斎の一族は女、子供にいたるまですべて死罪にするなど、天狗党の人々をつぎつぎに処刑していった。
 しかし時代は大きく動いた。薩摩と長州は倒幕への動きを強め、ついに幕府は倒壊する。水戸藩でも天狗党側が実権をとり戻し、市川の保守門閥派に対し血生臭い復讐が行われた。
 逃げ出した市川保守門閥派は水戸城周辺の戦闘でも敗北し、全滅してしまうのである。
こうして水戸藩は幕末の激しい争いの中で多くの人材を失い、明治新政府に一人の高官も送り込むことが出来なかったのであった。

 さて天狗党に対する処分が終ったころ、小林平太郎も自由を回復していた。どうして彼が幕府若年寄の田沼に身柄を引き渡されなかったのか、どうして罪をのがれたのか、くわしいことは判らない。また彼が依託された武田耕雲斎の書状も、どういう結果になったのか不明である。
 天狗党側から一橋慶喜あての嘆願書は、このほかにも何通かは幕府側を経由して提出されたが、ほとんどが破り捨てられる運命だったという。
 小林平太郎は出身地の津市に戻って新しい明治の世を迎えた。そして静かな余生を過ごしていた。明治の中ごろになり、平太郎が天狗党に参加していたことを知った人が、書面で彼に当時の思い出を質問したところ
  「敗軍の将は兵を語らず」
と墨黒々と返事が書いてあったという。それを見た人はそれ以上の質問を遠慮したそうである。
            その1へ          〔終り〕
 
 参考文献   柴田厚二郎「鈴鹿郡野史」
   吉村昭「天狗争乱」 島崎当村「夜明け前」  
 
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