東海道の昔の話(85)
 中江藤樹の妻 1  愛知厚顔   2004/6/18 投稿
  亀山での部分は史実がはっきりしないのでほとんど厚顔の創作です。あとは史実のとおりです。中江藤樹

 この年の夏はことに暑かった。
しかし亀山の城下町は丘陵の上にあって、どんな暑い日でも午後になると、西の山々から強い風が吹いてくる。
戸障子を開け放しておけば、青い田圃や緑の畑を通り過ぎ、心地よい涼風となって家の中を吹きぬける。だから真夏にはどの家も昼の食事をとったあとは、ついその風の恵みを受け、うとうとと昼寝を楽しんでしまう。近郊の農民が作る葦簾はうまい具合に太陽の直射を避けてくれる。
 東台の渋倉藩士長屋に住む高橋小平太も、昼寝をむさぼっているところだった。
  『ごめん、高橋さんはご在宅か?』
大きい声に驚き、小平太は目をこすってむっくり起き上がった。
  『なんや森本さんかあ
   いやあ、つい風が気持ちいいんで、うとうとさ』 
  『それはすまん、すまん、実は…』
大声の訪問者は津藩の森本正貴であった。

 彼は藤堂藩三十五万石に仕える侍だが、幼いときから頭脳明晰と学業秀逸で知られていた。出仕したのちも藩主の幼君の養育相手や藩校で教鞭をとっている。彼は最近盛んになってきた陽明学にも通じていた。小平太とは同学のよしみであった。
  『実は貴方の娘御のことだが、先日のお話は本当でしたか?』
小平太には久子という娘がいた。今年は十七歳である。
このころでは結婚の適齢期であった。ところが親の小平太がそろそろ娘の嫁ぎ先を…と探し始めたのだが、まとまるようでいっこうに縁談がまとまらない。
 実は小平太はまだこの亀山の地に、心からなじんで親しい人がいなかった。

 それは四年前、ときの亀山城主、三宅越後守康信が病死し、後を大膳亮康盛が継いだのだが、昨年の寛永十三年になって自分みずから幕府に対し
  「我が家臣少なく、統治困難につき移封を願い奉り候」
と、転勤希望を出したのである。この当時は幕府の大名潰しは厳しいものがあり、家臣の不始末や住民の一揆などはもちろん、本人の不行跡、後継者不足や能力不足があれば、即大名の座を追われるのだが、このときはどうしたことか、願いは聞き届けられ、常陸国新治郡府中に移封となった。
 そして六月に本多下総守俊次が三河西尾から移ってきて、五万石を領知したのであった。

 主君の転勤にともない高橋小平太も家族を伴ない、西尾から移り住んでまだ一年少々であり、ほとんどこの土地には知人はいなかった。本多の家中でも久子となる適齢相手は少なく、もともと無理だったのである。けれど
  「まだ慌てることはない」
そう思っていたが、縁談が持ち込まれる数もめっきり減ってしまう。そして今年の春ごろから、まったく縁談がやって来なくなった。本来なら母親やら叔母やら親戚やらが、一生懸命になって嫁ぐ相手を探してくるものだが、久子の場合に限ってそれが殆どなかったのである。土地不案内もあるが、親は別のことで悩んでいた。
  「可愛そうだが、これは久子の容貌のせいに違いない」
  「あんな顔に生まれたのも、親の私らのせいだ…」
小平太夫婦は娘の顔をみるたびに嘆いていた。美しい顔とか醜い顔とかは、人によって異なるのだが、久子の場合は大抵の人から内心
  「お気の毒に…」
と思われていた。

 ある日、両親は思い切って娘に
  『絶対幸せな結婚させるから…、慌てずに私らに任せてくれるか?』
と切り出した。久子は
  『お父上母上のよろしきように…』
と澄んだ瞳をじっとこちらに向け、明るい顔で答えたのである。
 そしてさっそく数少ない友人の森本正貴に、縁談の斡旋を依頼したのだった。
 今日の訪問はその縁談話の結果である。
  『相手は近江高島郡小川村の中江与右衛門という人です…』
  『ああ、あの中江藤樹と呼ばれている陽明学の先生ですね。これは久子にとってまことに有難いお話です。』

陽明学とは中国の明代に王陽明が説いた儒学の一派で、理論を重んじる朱子学に対し、理論と行動の一致を主張し実践を重視した。わが国ではこの中江藤樹がはじめて主張し、弟子の熊沢蕃山や大塩平八郎が有名である。近くでは三島由紀夫が「革命哲学としての陽明学」として論考している。

 森本は言葉をついだ。 
  『そうですか。喜んで頂けるのはいいのですが、少し心配なのは、知らぬ他国の人でしかもお年が三十歳、娘御とは十三も離れた上ということ。
   そして少し小うるさい姑がおられることです。』
  『もとより侍の娘として、ひと通りの行儀作法、心得は親として仕込みました。またひとつの家庭を守る覚悟は出来ているはずです。さっそく本人を呼んでご返事させます。』

 父親はそうは言ったものの、多少は不安な心地でもある。
もう少し久子を美人に生んでおけば、もっと親の手元近くで、もっと条件の良い縁談が降るように舞い込んだだろうに…。
娘が不憫でならない。久子が母親に呼ばれてやってきた。
  『いま森本さんからこんな話があった。久子の気持ちはどうだろうか』
  『お父上、お母上のお心のまま。私は先さまに参ります。ご心配はご無用でございます』
いつものとおり澄んだ眼をこちらにむけ、明るい顔で答えた。

 中江与右衛門こと籐樹はすでに思想家の泰斗として、その名声は近隣に鳴り響いていた。かねてから塾や母の面倒を見てくれた妹も結婚して家を出た。大勢の弟子や親戚からも
  「早く妻帯して家塾の手助けを」
とひっきりなしに縁談を持ち込んでいたが、三十才までは嫁を取らないと自分で決めていた。理由を聞いてもはっきり言わない。
 その藤樹が三十歳になったのは寛永十四年(1637)である。
久子の気持ちもはっきりした。森本正貴はさっそく近江小川村の師のもとに走った。そして
  『この娘は先生にぴったりです。いかがでしょう?』
  『年はまだ若いが、頭が切れて立ち振る舞いがしっかりした子です。』
森本は藤樹が京都にいたとき入門した古い門人でもある。
  『貴方がそこまで言われるなら、お任せします。』
と承諾したのである。
 
 その年の暮れ近く、父親の高橋小平太と仲人の森本正貴に連れられて、久子は近江小川村にやってきた。
  「籐樹先生のお嫁さんは、どんな人だろうか?」
鵜の目、鷹の目、興味深々で塾へ押しかけた人々は、
  『エッ!』
と小さな声を出して驚いた。それは久子の容貌を見たからであった。実は籐樹も久子をはっきり見たのは、この日が始めてだった。いまのように見合い写真があるわけでもない。ただ弟子で仲人の森本を信頼しての縁談である。
籐樹はもう一度正面から久子を見すえた。
  「ほお、たしかに森本の言うとおり容貌はいまいちかもしれない。だが、この澄んだ瞳はなんだ。その底に輝いている英知は誰にもないものだろう。この娘なら安心だ。」
彼はすぐ見抜き自然に微笑みが顔に出た。久子も彼の顔をまっすぐ見返して微笑んだ。

 祝言の式は夜に行われた。
大勢の親戚、弟子たちと祝辞を交わし、宴席の賑わいも収まったころ、籐樹の母のお市は彼を呼んだ。
  『ちょっときなさい』
そして小声で
  『あの嫁は離縁したほうがよい。』
  『いったいどうしたんですか、あれとお母さんとの間で何かあったんですか?』
すると母は
  『格別なにもありません。あの顔では…あれが
   藤樹の嫁かと、人から指されるのは目に見えてます。』
  「やはりそうか…」
 藤樹はもう母を説得しなくてはならないか…と、うんざりしてしまった。
  『私が気に入って嫁に貰ったんです。
   お母さん、まだあれも今日きたばかりです。これから
   追い追い我が家に慣れていくでしょうから、娘がきた
   と思って可愛がってください。』

 私が気に入って貰った嫁だ。そう断言されるといくら母親でもそれ以上は言葉が出なかった。母はそれでも諦め切れずブツブツと不満をつぶやく。
  『お母さんは日ごろから、女性は”七去”があると
   言われていましたね。それは夫の父母を大切に、
   子を産むこと、おしゃべりを慎む、盗みをしない、
   淫乱でないこと、嫉妬しない、悪い病気でないことの
   七つです。容貌云々はこれに入っていません。』
これを聞いて母は言い返した。
  『貴方は日ごろから弟子たちに、親に孝養を尽くせと
   教えているのに、どうして私の言うことが聞けないのです?』
母の声はだんだん高くなった。藤樹は
  『お母さん、よく聞いてください。親孝行とは親の
   言いなりになることではないのです。親に非が
   あるときは、親を諌めるのも孝養です。お母さん
   の理屈は間違っています。
   久子は私の妻です。』
 藤樹は最後にピシャリと言った。その言葉の激しさに母はそれ以上、息子を説得する隙間が見出せなかった。
                     〔続く〕
 
戻る