東海道の昔の話(88)
 二人の剣士 2   愛知厚顔   2004/6/25 投稿
 
 安政三年三月(1856)、幕府は風雲急を告げる時勢に対応するべく、軍事訓練所として講武館を開設した。
それは弓、鉄砲、槍、剣の四部門に別れ、総裁二名と各部門に師範役が一名ずつ、そして実質指導の師範役が一名と教授役が置かれた。伊庭八郎の養父の伊庭惣太郎と高弟の三橋虎蔵を剣術の教授、湊信八郎が剣術世話役に任命された。講武館の剣術稽古も伊庭道場そのままのきびしい修行の連続だった。
全国の各藩から選び抜かれた俊才たちが集まってきて心と技を磨く。
 修行を始めると人はすぐ剣の道の本心に至るのは困難だと悟る。そこですぐ本心に至れない凡人にも容易に解るよう、どう導くのか…、彼らには心は見えない。刀は物として見えている。そのためそれに捕らわれ過ぎる。心と刀を繋ぐのは、体という媒体を通じて現れる形にあるのだから、形を直せば刀に捕らわれ過ぎることはない。これで見えない本心に至れるだろう。ここに本心刀流の本心と刀との間に形を入れ、本心形流、いまは心形刀流と称している。

 この講武館にいつしか伊庭八郎も通うようになっていた。
山崎雪柳軒は相変わらず上野新黒門町の藩邸と下谷の伊庭道場に通う日々が続く。その間、伊庭八郎と山崎とは住む場所と通う場所の違いから、ほんの数回しか顔をあわせることがなかった。あるときも八郎に
 『剣術が上手になったそうだね。』
声をかけると、美少年の八郎は真っ赤にはにかみながら
 『山崎先生の御蔭です。』
剣術の稽古を始めてまだ間がないというのに、たちまち天分を発揮して「伊庭の小天狗」と呼ばれるほどに上達していた。
やはり血筋は争えないということだろうか。八郎の剣の構えや技はどことなく華やか、少年剣士たちはこぞって真似をしたという。

 安政五年(1858)、八郎が十五才になった年に実父の秀業がコレラで死んだ。恩師を失った山崎雪柳軒も悲しみの日々が続いた。しかし遺児の八郎の目覚しい剣の上達に、心は少し癒されるのであった。
 文久元年には九代目が幕府講武館剣術師範並に任じられる。
このあたりから八郎も教えてもらう側から、養父の代役として教える側に立つ。
 ある日、亀山藩邸にいた山崎に連絡が入った。
 「きたる五月某日に山岡鉄太郎さんと試合します」
 『エッ。あの剣豪とか…』
山崎は絶句した。いくら小天狗と呼ばれてもまだ実力はない。
山岡は千葉道場で北辰一刀流の達人として有名であり、槍は刀心流の山岡静山に学んで免許皆伝である。年は八郎より少し上の二十才。腕を見込まれ講武館剣術教授方世話役をしていた。
彼は「鉄砲突きの山岡」とも言われ、一寸ほどの羽目板を竹刀で突き砕いたと恐れられていた。
 「試合はまだ時期尚早、怪我するのがみえている」
山崎は八郎に試合を思い止まらせるべく急いだ。

 講武館道場に近ずくと、入り口も窓も人だかりで一杯である。
この試合を見るために、講武所の各部のほとんど全員が、見にきていると思われた。中には派手な色物の着物姿の女もいる。
やはり伊庭八郎の美男子ぶりは世間に知られているのだろう。
 山崎は一刻も早く…と慌てて人を掻き分けていると、顔見知りの門人が
 『試合はいま始まりましたよ。』
ああ遅かったか…。人の頭越しに道場の中が見えるところで、山崎はあきらめた。
 道場では正面の鹿島神宮の掛け軸を背に、二人の剣術教授方が審判である。その一人は八郎と同門の三橋虎蔵であった。
道場の真ん中ではすでに睨みあっている。山岡は竹刀を北辰一刀流独特の青眼に構え、八郎は二刀を構えている。
 「ほおう、朧青眼の構えだな」
山崎はうなった。山岡の青眼はまっすぐに打ち込むための技と見た。しかし八郎の朧青眼はまっすぐ打つと見せかけて、自由自在に変化するための構えである。彼は袴の裾で足を隠している。
 「それでよい」
八郎は心形刀流の教えどおりに形を作っている。これなら冷静である。道場中がシーンと静まり返る。聞こえるのは遠く町の物売りの声だけだ。ややあって八郎の足が刻み始めた。
じりじりッと爪先の角度が変わる。だが袴の裾が足を覆っているので見物人には判らない。しかしさすがに山岡はそれを察した。からッと眼を大きく開くと
 『とおッ!』
大きく空気が切り裂かれる気合である。そして一気に竹刀は前へ突き出された。これが山岡の鉄砲突きだった。見物の人々は誰しも八郎がこの突きで倒れたものと思った。このとき八郎は
 『はッ!』
鋭い気合とともに柔らかく腰をひねり、見事にこれを外してしまった。これが伝書目録に云うところの
「此の朧の使い方は鋭直に非ずして柔回を旨とせり。
 称せし技は敵の測り難きを旨とせり」
という技であった。
 それから二人は竹刀を数回当てたが、いずれも勝負にはならない。時間が過ぎてゆく。試合を開始してから二十分ほどたっただろうか、こんどは八郎が思い切って
 『やッ!』
相手の胴を目掛けて払った。これは偽りの攻撃だと山崎にはすぐ判った。そしてそのまま腰を低くして守りを固める姿勢をとった。切り付けるときに、途中で攻撃を止めてフエイントをかける。そのため中眼刀と伝書にある。そのとき山岡は再び
 『えイッ!』
気合とともに得意の突きを入れてきた。これも八郎は軽々と外した。そして数合の気合のあと、山岡はこれが最後だッとばかりに
 『…』
無言で突きを入れてきたのである。しかしこの三度目の山岡突きを
 『…』
これも無言で山岡の竹刀を跳ね上げ、見事に外してしまった。
八郎に外され跳ね返された竹刀は、道場の羽目板を突き破った。
それを見た八郎は振り返った山岡鉄太郎に、静かに微笑んだのであった。
 道場を揺るがす歓声と賞賛の声、伊庭八郎の剣はこのときから江戸はもとより、全国に知れ渡っていった。

 元治元年(1864)、山崎雪柳軒は亀山藩江戸勤務を解かれた。
もう三十七才になっていた。彼は生まれは江戸藩邸であり育ちも江戸の方が長かった。しかし藩命で亀山に帰参しなくてはならない。
 彼にとっては第一の故郷とも言うべき江戸の町、そして多くの門人と友人とも別れが待つ。後ろ髪を引かれる思いで帰郷の準備に入った。そのころ伊庭八郎と養父の九代目宗家にも大きな変化が待っていた。
 八郎はこの元治元年には二十一才を迎えていたが、前年末に養父が将軍家茂の親衛隊ともいうべき奥詰に任命された。
そして八郎も講武所剣術方として将軍家茂の一行に養父と一緒に加わり、警護役として京都に上ることになったのである。
 山崎雪柳軒と伊庭八郎、年令が十六も離れていたが、二人はよく気が合った。
 『こんな時代だ。これが最後の江戸の町の見納めに
  ならなけりゃよいが…、お互いに身体を大事にし
  て御奉公に励もう』
じっと江戸の空を見上げ、別れを惜しんだのだった。
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