東海道の昔の話(89)
 二人の剣士 3   愛知厚顔   2004/6/25 投稿
 
山崎雪柳軒は亀山に帰着すると、さっそく城に上り主君に伺候した。先代藩主の石川総録は二年前の九月、江戸藩邸で亡くなっており、その後を石川総修が継いでいた。
 『待っていたぞ、そちの剣術を藩士たちに
   存分に教えてほしい。』
主君の傍には実弟の石川成之が座っている。彼は江戸で山崎から幾度も心形刀流の技を教えてもらっている。成之はこのあと藩主となり困難な維新回天を乗り切る運命を背負うことになる。
 『山崎、期待しているぞ。』
暖かい言葉に感激し、さっそく自分の住居の隣に、武術道場を建設する許可を藩庁に願い出た。場所はいまの亀山市南野町である。幸いにすぐ許可が下りた。面積は約五十坪あり江戸の伊庭道場に似せた設計となっている。この道場の名前は亀山演武場とし、ここでは剣術はもとより柔術、水泳術などあらゆる武術が伝習された。
 もともと亀山という土地柄は諸流派による剣術が盛んであり、個人道場も大変多く、藩士はもとより町民や近在の農家の若者たちも道場に通っている。
 そんなとき江戸から最高の技を持ってきた山崎雪柳軒、たちまち評判はいやがうえにも上がっていく。道場を開いてわずかのうちに亀山城下随一の繁盛ぶり。連日、竹刀の響きや裂白の気合が聞こえていた。彼の剣を学ぶ人々に小寺直衛、物頭の大津土左衛門、堀内柳外、三木助三郎らがいた。
 しかし彼の道場が完成するのは元治二年なので、再び伊庭八郎と顔を合わせたときは、まだ全部は完成してなかった。

 伊庭八郎は元治元年の一月、第十四代将軍家茂の上洛の際、養父とともに講武所剣術方としてお供した。八郎にとっては初めての京都である。
 幕末の攘夷派、佐幕派が熾烈な暗闘を繰り広げ、殺伐騒然とした京都だったのだが、若い八郎にはそれよりも京大阪の賑やかさが魅力だった。彼は歴史が好きで、しかもかなりの食通である。公務をこなす合間にはグルメ、京見物、ショッピングをせいいっぱい楽しんだ。
 このときの日記が「征西日記」としていまも残されている。
これによれば連日のように島原遊郭へいったり、嵐山、鴨川あたりを観光し、ウナギ料理や甘いもの旨いものを片っ端から食べ歩いている。とてつもない食いしん坊である。このときあまり甘いものを食べ過ぎ、虫歯で剣術の稽古を三日も休むほどだった。
 『何があっても食うぞ!』
もちろん公務でも上覧試合で優秀な成績を残し、将軍から刀の下げ緒を貰ったり、乗馬の競走でも褒美として扇子を貰ったと日記にある。
 しかし久坂玄瑞や高杉晋作らの日記にあるような時勢論は一切なし、これが幕臣として最後の最後まで至誠を貫いた伊庭八郎の日記かと思うと、別の意味でも驚いてしまうのである。

 ところが京都に滞在すること半年あまりたったときである。
六月五日、京都河原町三条の池田屋を新選組が襲撃し、中にいた多数の尊攘派浪士を殺傷した。いわゆる池田屋事変が勃発した。この殺伐とした情勢は少なからず影響を与えたらしい。
 一月前の五月十六日にはすでに将軍は京都を離れ、大阪の天保山沖から船で江戸に戻っていったのだが、将軍を見送ったあと八郎は実弟の三郎を伴い、陸路で江戸に戻ることにした。
幕府からは船で江戸に戻るよう指示されていたのだが、陸路での強い希望を述べたのが許されたとある。おそらく
 『もっと観光を楽しみたい。山崎先生に会いたい。』
というのが八郎の本音なのだったであろう。
 
 いったん大阪から京都に戻ったのち、六月十四日に京都を出発し東海道を下った。旅を重ね十六日に近江土山宿を出発したころから、弟の体調がおかしくなった。足取りもおぼつかなくなり、駕籠に乗って鈴鹿峠を越え坂ノ下、関宿に十二時ごろ到着した。通常なら亀山宿には夕刻前に着けるのだが、あまりにも弟の三郎が難儀な様子なので、この宿で宿泊することにし、
すぐに亀山の山崎雪柳軒に手紙で知らせた。
 「宗家の御曹司二人が亀山にくる。」
 山崎と彼の門人たちは狂喜して喜んだ。翌日の早朝に山崎と大津土左衛門が関まで出迎えにきた。そして南野町にある山崎の家に入ることができた。
 「六月十七日、途中まで山崎氏、大津氏迎えにお出に
  なり、山崎氏のお宅へ行き、種々のご馳走や、医者
  までもお世話になった。葛輪氏にもお目にかかり、
  淡成斎様から厚くお世話を受けてお菓子を頂き、
  夕方山崎氏のところを出て城下の柏屋という飯屋
  に滞留。斎内と申す御手医者を殿様から仰せ付け
  られ、その他皆々様もお出になり、堀内柳外殿も
  お見舞い下された。」
簡潔な日記だが、亀山では弟の病状を案じた亀山藩主から、医者の配慮をして貰ったり、山崎宅をはじめ大勢の人々から、見舞いやら招待されてご馳走攻めにあっている。まさに大歓待の連続である。西町柏屋跡

 亀山の柏屋という宿で数日滞在したが、この年の亀山の夏は猛烈な暑さであった。皆から医者や薬などの差し入れや見舞いを貰ったせいか、弟の体調も快方にむかった。そこで八郎は請われるまま、剣術の稽古を藩士たちにつけている。
 『わが流では形稽古を重視しています。
  これについて考えてみましょう。この世界には形が
  あります。したがって形のもつ意味を理解しようと
  してこの世界を体験し、自分がそこにいる意味を
  見出すこと。これが形稽古なのです。』
 『しかし年をとるにしたがい、人は我欲に溺れ生活の
  中で身につけた我執を自分本来の姿だと錯覚してし
  まいました。それだから自分がこだわりの中で自分
  を見失っているということを体験する必要がでてき
  ます。型という制約によって、外側の形が本来もつ
  内側の働きを見出す工夫の場が必要になってきまし
  た。これが型稽古なんです。』
 『型稽古ではしっかりと自分と向き合うことです。
  決まった手順で出来る出来ないを競ってはなりません。
  だがら技を身に付けるのが重要なのでなく、自分を
  出来なくしている要因は何かを悟ることが大切なのです。』
 八郎の指導は心形刀流の精神的な根幹を説明することからはじまる。そして各人のレベルに応じて八双、飛竜、膝車、引疲、丸橋、波切の入門級から、免許皆伝級の清明、水月、柳雪、三心と教えていく。

 剣術の指導は涼しい午前中に行われた。
そして残りの時間はご馳走と宴会攻めである。思いがけなく藩主から金三百疋と、宿の滞在費の一切を負担するという温情を賜わり、感激を新たにしたのだった。
 また別の日は大勢の藩士と泉川(現在のどこか?)という河原に出向き、投網で鮎をとろうとしたのだが、漁獲はさっぱりなく、がっかりして帰る途中の農家で夕食をとり、夜遅く帰ったこともあった。
 六月二十五日、九日間に及ぶ亀山での楽しい滞在が終わる。
親しくなった藩士、友人たちに別れを告げ、後ろ髪を引かれる思いで東海道を下った。八郎の日記もこの日で突然終わっている。
おそらくあまりにも楽しい思い出を、そのまま心に閉っておきたかったのだろう。
        戻る     〔続く〕
 
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