東海道の昔の話(47)
明和五年の農民一揆2   愛知厚顔    2003/11/28 投稿
 
【一揆 一日目】
 明和五年〔1768〕九月十三日。
 宅蔵に引率されて、前夜ひそかに出発した野村の一隊は広瀬野にむかっていたが、この日の早朝に到着した。そして宅蔵は首魁の真弓長右衛門に事情を説明した。
  『私の村は廻りを藩の武士に囲まれ、留守宅が心配です。
   もし一揆が亀山城下近傍に入ったとき、私たちの独自
   行動を認めてください』
真弓は
  『野村の留守宅は人質にとられているようなもの、
   止むをえないだろう』
と申し出を認めた。

 九月十三日を期して広瀬野に集合した一揆の総数は五千四百余人。
 一揆側は総大将に伊船村(鈴鹿市)の豪農、真弓長右衛門を決め、一揆の衆徒の統率に頭取として国府村(鈴鹿市)の打田仁左衛門、その下に補佐頭取として小岐須村(鈴鹿市)嘉兵衛、辺法寺村(亀山市)喜八、大岡寺村(亀山市)江戸屋某(70才)を置いた。
 また各村ごとに一人ずつの頭を定めて評定所を置き、頭取の命令を伝達し実行する作戦本部とした。また三人の健脚の男を亀山城下の様子を探る密偵役に選んだ。一揆は各村から鋸、鉈、斧などの道具を持参する者をまとめ、総数二百五十余人の特別任務の一隊を編成した。
これに五十人ごとに一人の小頭を決め、藩有林に入って樹木を伐採し、かがり火、焚き火の材料としたり、評定所の柵などに使用した。

 そして三千人を小天狗塚に集め、残りを天王山という小さな丘の西に駐屯させた。彼らは竹竿に大平椀を付着させて自分たちの指物とし、村の名前を書いた旗とともに、これを一ヶ所に立てて目標にした。
 また一揆衆は前隊、中隊、後隊と三隊に分け、目標とする大平椀の数を一、二、三、の三種類に区別した。また近くの村の寺院から半鐘を強奪し、鐘を打ちならしたという。
 ところが近くの広瀬村(鈴鹿市)や伊船村(鈴鹿市)、名越村(亀山市)の農民で、まだ成り行きを見守っており、一揆に参加しない者が多い。
 頭取の打田仁左衛門はこれを見て
  『あいつらの家を壊すか焼いてやろうか?』
と各村の頭分に相談したところ、なかなか結論が出ない。そうこうするうちに食料、投げ石道具の製造や調達を急ぐ必要に迫られてくる。
そこでつぎの事項だけ決めた。

 一、飲料水を運搬し貯蔵すること
 一、近くの村から大釜その他炊事用具を徴発すること
 一、投げ石用具(ふりずんばい)を急いで製造すること
 〔ふりずんばい〕とは、端午の節句に農民の子供たちが川を隔て、対岸の相手と石礫を飛ばして、遊ぶときに使う投石具である。投石は子供の遊びにしては危険なので禁止されていたが、ひそかに投石遊びがまだ行われていた。このときの原始的な投石用具の名前である。

 この広瀬野に一揆の農民が集合したとの情報が大庄屋たちに伝えられた。
 そこで野村の大庄屋伊藤兵左衛門、関宿の大庄屋市川善左衛門、小田村の丹次郎の三名は従僕二名ずつを連れ、西富田村(鈴鹿市)の庄屋孫四郎宅にいき形勢を分析した。
 そして孫四郎たちを加えて十二名で広瀬野にむかい、急いでいると、甲斐村の庄屋、庄七と出会った。そこで全部で十五名の偵察隊を組織して広瀬野を目指した。ところが歩き出して間もなく、一揆の先発隊と遭遇してしまった。
  『おい!大庄屋じゃないか!俺たちの邪魔するのか!』 
あっという間に十五人は数百人に周囲を囲まれてしまう。このとき丹次郎と庄七の二人は人一倍の力持ちだったので、
  『こんな無法は許されんぞ!家に帰れ!』
と叫びながら持ち前の豪胆さで相手を叩き伏せ、血路を開いてまず兵左衛門と善左衛門を、囲みから脱出させることに成功した。

 丹次郎、庄七たちは最後まで奮闘して敵を倒して頑張ったが、数に優れた敵に圧倒されてしまい、やがて彼らも負傷して倒れてしまった。
それを見て他の従僕たちは棍棒を振るって一揆の衆を打ち、二人を救出することに成功した。
 この争いの最中にようやく各庄屋、藩役人たちが手下や親戚を集め、総勢四十数人となって到着した。そして一揆衆の中から残りの者全員を救出した。
 このとき庄屋側で負傷した者は八名、農民側廿余人であった。

 一揆の連中も始めての争闘だったので、その混乱は激しくて追撃することも出来ず、ただ悔しがっただけであった。兵左衛門と善左衛門たちは亀山に帰り城の重役に
  『広瀬野に集うもの五千数百人、先頭と衝突し
   怪我人が出ました。』
と急を告げた。また一揆の者も流血を見て恐れたのか、頭取へ
  『村役人を負傷させてしまった以上、亀山から役人が
   捕らえに来ます。それを防ぐ方法は大丈夫ですか?』
とウロウロして報告したという。そのとき頭取の大岡寺村の江戸屋某が
  『広瀬野は天下の兵が攻め寄せても恐れることなし、
   亀山城の全兵が出てきても、これを防ぐことは可能なり』
とハッタリを効かせた。これを聞いて一揆の衆はやや安心し、喚声を上げて広瀬野に戻って廿数名の負傷者を保護し、それぞれの村に送還した。負傷者の家族はこれを見て非常に驚ろき、うろたえたという。

 大岡寺村の江戸屋某(70才)は若いときに江戸に遊び、剣術を学び兵学を究めている。また戦陣では兵を動かし指揮する学も身につけたが、老年になってもその才能を発揮する機会がなく、彼はいつもこれを嘆いていた。
 ところが農民が怨みの行動を起こしたこの機会に、これを煽動し我が才能を満たそうとはかったのである。階級社会の時代ではいくら農民が兵学を修めても、適所に登用される道はなかったのである。

 当時、亀山城主は石川総純だが治安の実務は後見人、石川総徳に任されていた。彼は乱闘に及んで負傷した大庄屋たちの報告を受け、代官の猪野三郎左衛門、杉田藤左衛門たちに
  『その方らは同心五十名を引きつれ、広瀬野に向かうべし』
と命を下し、広瀬野に出動させた。これは兵力を使う前に、まず警察力で鎮圧することが可能、と判断したことによる。
 もっとも農民一揆の鎮圧にすぐ兵力を用いるのは、施政者のとる道ではない。
 命を受けて猪野、杉田らは、まず負傷した庄屋、村吏、従僕たちを安全な場所に収容した。そして広瀬野に近ずいていくと、一揆の偵察に見つかってしまった。彼らは
  『ボーッ!』
と法螺貝を吹き、皆に急を知らせた。それを知った三千余人は竹槍を構えて突進してくる。それをみて猪野、杉田らと藩士同心は、
  「この程度の警察力ではとうてい鎮圧は無理だ」
と知って亀山城に帰ってしまった。

 亀山城内では石川総徳を中心に善後策を図った。
家老の近藤織部(38才)、郡代の大久保六太夫(58才)、代官の奥村武左衛門たちは
  『兵力を用いて殲滅しよう』
と強硬策を主張する。だが家老の石川伊織(42才)は
  『彼らに死に値する罪があっても、我が領土の民である。
   これを殺した後の領土の荒廃をどうするのか、ここは
   農民に人望がある平岩安太夫、生田理左衛門たちに
   鎮撫の説得に当たらせたらどうか…』
と主張した。近藤織部はこれを聞いて反駁する
  『いや二、三百人の兵力で簡単に彼らは鎮圧できる。
   私に任せればやってみせよう』
と言う。あれこれ議論をしているうちに日は暮れはじめた。もう時間がない。
  『仕方がない、ここはいちど近藤氏にまかせよう』
近藤織部は同心と足軽百五十人を集めると、自ら引率して郡代の生田弥兵衛、大目付の馬場彦太夫たを連れ、提灯廿張りに火を入れて堂々と城を出発していった。

 やがて和泉橋に到着すると。そこには一揆の先頭が守っていた。
近藤織部は彼らにむかい
  『直ちに解散すべし』
と通告した。彼は文武兼備の侍として知られた人だが、少し性急に事を運ぶ性格があった。しかし予想どおり一揆の連中は解散に応じない。
そして
  『もう藩のお前らに頼むことはない。美濃郡上一揆の
   顛末を知らんのか!我らもう江戸表に訴え出るだけだ!』
  『ボーっ』
またも法螺貝を吹き鳴らした。この音を聞いて広瀬野方面からは一群が
  『ワーッ!』
喚声を上げて迫ってきた。また天王山にいた一揆の連中は遠く迂回して側面から殺到してきた。そして石礫を和泉碩(鈴鹿市)にむかって飛ばしてくる。この勢いはまったく軽視できなかった。近藤織部も農民らがこの投石機を持っているのは知っていたが、こんなに威力があるとは知らなかったったらしい。
  『いったん城に引き上げよう』
織部たち同心と足軽の百五十人は、石雨の中を急いで引き上げていった。

 広瀬野に駐屯している一揆は、
  『近くの村の連中でまだ傍観しているヤツがいる。
   どうしよう。』
  『そんな卑怯者は家を焼いてしまえ!』
壮年者から三隊の放火隊を編成し、伊船、広瀬、名越(亀山市)の村へ向かった。これをみて傍観していた農民はことごとく一揆に参加してしまった。そして罰として米穀を徴発した。真弓長右衛門の出身地である伊船村やその近くの村村で、真弓の呼びかけに賛同しない者がいたのはなぜか。
 それは恐らく太閤秀吉の検地のとき租税が徹底して行われたか、土地改良で荒地が良田になっているものは妥当だと藩の方針を支持したか、村政が行き届き農民に不平が無くなったのか…、
学者は「この村は他の村より裕福だった」というが。あるいはそうかも知れない。

 このときの一揆の農民は凡庸の人が多く、天狗や妖怪、狐タヌキの神通力を信じていた。真弓長右衛門はそこで一人の老人に金の冠を被らせ、
  『我は天狗の命により汝らを助けるため現れた、
   源太夫という狐なり』
と叫び
  『我は汝らを助ける。一揆は必ず成功する』
と言って、竹藪の中へ姿を消すよう演技を仕組んだ。五千余の農民たちはこれを聞くと一斉に
  『ワーッ』『ボーッ』
と喚声をあげ法螺貝を吹きならした。そして西富田村(鈴鹿市)にむけ動きだした。その勢いはまるで大河の水のようであった。こんな子供騙しのような演出策でも、昨日の庄屋連との衝突で意気が消沈していたのが、一気に盛り上がって鼓舞する効果があったのだ。
 九月十三日夜には一揆の前哨隊は再び和泉端を奪った。

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